<源氏山周辺神社仏閣一覧>

           梶原御霊神社葛原岡神社 佐助稲荷神社 諏訪神社(御成) 銭洗弁天

                  浅間神社巽神社刃稲荷八雲神社(常盤)
八坂神社

                            一向堂跡岩舟地蔵堂岩窟不動尊
英勝寺圓久寺海蔵寺

                         寿福寺
 浄光明寺多宝寺跡妙伝寺薬王寺


                 <非公開の仏像や撮影禁止場所の写真は鎌倉シニア通信のお寺さんより引用しています>

                                            このホームページに掲載されている資料を使われる方はご連絡下さい。
                                                                                                         <問い合わせ先>



                                             <梶原御霊神社>

   鎌倉にはこの梶原と海に近い坂ノ下の2箇所に御霊神社があり、祭神は鎌倉権五郎景政の霊とされ、この梶原御霊神社が本宮という伝えがあります。梶原御霊神社は、深沢小学校の東北側に位置し、本殿・拝殿・社務所・祭器舎あり、文政4年3月建立の石造鳥居が立っています。
   
坂ノ下の御霊神社が、『吾妻鏡』の建保3年6月20日、建長4年11月17日の条にあり、また、『海道記』にあり、創建年代は詳らかではないが、平安時代後期であると推定されていることから、もし、坂ノ下の本宮であったならば、この梶原御霊社も鎌倉幕府成立以前からの旧社と考えることができます。
   『風土記稿』には、もと等覚寺持で、景政夫婦の像と伝える木造2体を神体とし、また、傍らに梶原平三景時の像があると書かれています。また『新編鎌倉志』では御霊宮を「鎌倉権五郎景政ノ祠ナリ」とし、「梶原村ニモ、御霊宮アリ。里老云、当社ハ、本梶原村ニ有シヲ、後ニ此地ニモ勧請ス。故ニ今祭礼ノ時ハ、彼所ノ神主出会テ勤ト也」云っています。更に『鎌倉攬勝考』五霊ノ社の項では、祭神は葛原親王で、景政を合祀したとし、鎌倉権守忠通が今の葛原ヶ丘に先祖葛原親王をまつり、葛原の宮とも御霊社とも称していたが、後にそれを梶原村に移して御霊社と称し、鎌倉権八郎景経の代に景政を合祀したとも云われ、数々の古書に載る由緒ある神社ですが、すぐ近くの深沢小学校の児童すら普段は訪れない静かな神社です
   神社の境内には、石造りものが色々のあります。大きいものでは、参道の鳥居の後ろにある2基の石燈籠と拝殿の前にある狛犬が立っており、庚申塔4基を含め、参道の入口に仏像のついた石塔が全部で3基、下拝殿の右側や、本殿に登る石段の途中の右手にも多くの石塔が並んでいます。>>>More

 
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                                                                <葛原岡神社>

   葛原岡神社は、後醍醐天皇の側近・日野俊基を祀る神社で、
明治維新後、南朝(吉野朝廷)が正統とされると、明治天皇が日野俊基に従三位を贈り、地元有志と全国の崇敬者の協力により明治20年(西暦1887年)に創建されました。神社の南側には日野俊基の墓があります。
   場所は、源氏山公園の一部、葛原ガ岡自然公園の一角にあり、周囲はソメイヨシノの木々に囲まれ、桜の名所としても知られています。園内には高さ2メートルもの源頼朝の坐像があり、扇ガ谷、佐助ガ谷一帯を静かに見つめています。また、源氏山は白旗山、 旗立山とも呼ばれており、これは後三年の役に際し、八幡太郎義家が奥羽に向かう折、山頂に白 旗を立てて戦勝を祈ったという伝説によります。
   後醍醐天皇は、日野俊基を中心として倒幕計画を画策し、天徳二年(西暦1330年)に南都の春日神社、興福寺、東大寺、比叡山延暦寺に行幸し、社寺勢力を倒幕に引き込むことを図り、元弘元年(西暦1331年)、醍醐寺の文観、法勝寺の円観、浄土寺の忠円などに関東調伏の祈祷をさせましたが、4月29日、天皇側近の前大納言・吉田定房がこれを六波羅探題に密告、幕府は、俊基、文観、円観、忠円らを逮捕し、彼らを鎌倉へ送りました。
   神社の祭神である日野俊基が、幕府転覆を企てたとして六波羅探題に捕らえられ、鎌倉の葛原で斬られたのは、翌年の元弘2年(西暦1332年)のことでした。>>>More

 
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                                             <佐助稲荷神社>

   赤い旗が立ち並ぶ鳥居のトンネルの中を急な石段が続いており、登り詰めると鬱蒼とした森の中に小さな社殿が建っています。
   「相州鎌倉隠里 佐助稲荷神社由縁」によると、源頼朝が伊豆の蛭が小島にいる時、宇迦御魂命が翁の姿で夢枕に立ち、「我は隠れ里の稲荷である。源氏の嫡流として打倒平氏の兵を挙げるのだ。勝利は間違いないであろう。」というお告げをしました。頼朝は冶永四年(西暦1180年)8月17日に挙兵し、平家を破って鎌倉に入り幕府を開くと、畠山重忠に命じて、隠れ里の稲荷を探させ、佐助ヶ谷に祠を見つけて再建したそうです。再建は建久年間(西暦1190〜96年)といわれています。
   
頼朝は若い時、兵衛佐であったので佐殿と言われており、その佐殿を助けた神と言うことで佐助稲荷と言われています。
   頼朝は、平治の乱に敗れた源氏一族を絶やすため平清盛に殺されるところを、清盛の継母池禅尼に助けられ、永暦元年(西暦1160年)14歳で蛭ヶ小島に流され、34歳まで韮山を中心に、比企一族をはじめとする源氏ゆかりの人や、伊豆の人たちの支援によって、生活を送っていましたが、北条政子との結婚で北条氏の後ろ盾を得ると、高倉宮以仁王の令旨を受け、三嶋大社の祭の隙をねらい、平兼隆を討って平家追討の火蓋を切りました。
   佐助稲荷神社、旗揚げ後の頼朝が征夷大将軍までのぼりつめたことから、別名「出世稲荷」と呼ばれ信仰を集めています。

   佐助稲荷は昔より麓の田畑を潤す水源の地で、境内の片隅には霊狐の神水と称される湧き水があり、今もこの霊狐泉は絶えることなく湧き出ています。>>>More

 

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                                          <諏訪神社(御成町)>

   鎌倉駅西口から鎌倉市役所前の道を通って、長谷の方面に進むと鎌倉商工会議所の横に諏訪神社があります。祭神は、建御名方神で、現在の鎌倉市役所横、市立御成小学校付近は諏訪一族の屋敷跡と伝える場所で、この諏訪神社も諏訪一族の守護神として邸内に祀られていいます。もともとは御成小学校内にありましたが、江ノ島電鉄の開通に伴い現在地に移したといわれています。

   
鎌倉市役所の地は、かって「諏訪地」と呼ばれ、射芸の名手諏訪盛澄や、鎌倉幕府の重臣諏訪盛重が住んだと言われています。現在は、車道と歩道に挟まれて大木の並木が続いていますが、一帯には森や池 諏訪神社などがあり「諏訪ノ森」と呼ばれるほど境内は木が茂っていたと『吾妻鏡は伝えています。
   源平合戦の際、諏訪盛澄は、『吾妻鏡』では盛澄が平家に組した為に頼朝の怒りに触れたため、また、『諏訪大明神絵詞』では盛澄は木曽義仲を婿としていたために頼朝に忌まれ、身柄は梶原景時に預けられ処刑されることになっていました。しかし、梶原景時は、この弓馬の達人の助命を考えていた矢先、鶴岡での流鏑馬奉納があることを知り、頼朝の前で流鏑馬を披露させ、妙技を発揮して一切を許されるよう図ったそうです。
   事実、頼朝の指図による鎌倉一のあばれ馬を見事乗りこなし、小さな土器一つも外すことはなかったその技に、頼朝は「とても人間技とは思えぬ。神の加護があってこそ」と許したそうです。盛澄は後に鎌倉の御家人となり、頼朝護身の役を勤め、さらに、諏訪氏は北条義時・泰時・時頼等に仕え、幕府の重職に就き、NHK大河ドラマ「風林火山」でおなじみの信濃国諏訪氏の祖となりました。
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                                              <銭洗弁天>

   銭洗弁天は、鎌倉駅から徒歩30分、閑静な住宅街の中の山道を登りつめたあたりに鳥居があり、それをくぐり、鳥居に続くトンネルを通り抜けると銭洗弁天の境内があります。
   正式名は、銭洗弁天宇賀福神社で、御神体を祭る洞窟の水には、以下のような言い伝えがあります。
   鎌倉幕府の始祖源頼朝公は、治承7年(西暦1183年)幕府を樹立しましたが、永い戦乱や災害が続き、庶民は貧困にあえいでおり、頼朝公は世の救済のため、神仏の加護を願って、日夜お祈りを捧げていましたが、文治元年(西暦1185年)の巳の月の巳の日に不思議なことが起こりました。
   一人の老人が頼朝公の夢枕に現れて、「ここから西北の方向に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧き出している。そこには清浄な泉があり、福の神が住んでいる。その水は神の霊水で、絶えず使って神仏をまつれば、人々は自然に信仰心が生まれ、悪魔や邪鬼も退散し、国内は平穏に治まる。」と告げました。頼朝公はその老人に誰かと尋ねると「私こそは隠里の主、宇賀神である。」と答えてその姿を消しました。
   頼朝公は、夢のお告げに従い、西北の谷に泉を見つけ、そこに岩窟を掘らせ、宇賀神を祀り、その水を使って神仏の供養を続けると国中は静かになり、人々は富み栄えるようになったといわれています。
   
その後、正嘉元年(西暦1257年)巳の年の中秋に、時の執権北条時頼公は、頼朝公の信心を受け継いで、隠里の福神に詣で、霊水で金銭を洗い、一家繁栄を祈ったのが今日の銭洗信仰の始まりだといわれています。>>>More

 
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                                                      <浅間神社>

   長谷大仏殿の裏通りを、大仏様を左手に見ながら北上し、長谷大谷戸の交差点の少し手前の小道を左手に入ると「浅間神社 浅間山公園」と書かれた木の看板が見えます。
   
木の看板の脇を、山腹へと向かってつづれ折りの参道が続き、登って行くと、中腹に「天保九如」や「浅間神碑奉還紀念辭」と刻まれた石碑があり、この石碑を過ぎると上に向って真っ直ぐ石段が伸び、その上に小さい社が鎮座しています。
   石碑から碑の創立は天保年間(西暦1830〜44年)であると分りますが、神社そのものの創立は不明です。
   浅間神社は、富士山の神霊浅間大神と木花咲耶姫命を主祭神とし、富士山本宮浅間大社静岡県富士宮市)を総本社とし、日本全国に約1300社あり、中には、木花咲耶姫命の父神である大山祇神や、姉神である磐長姫命を主祭神とする浅間神社もあります。
   
浅間神社は富士山信仰と結びつくものであり、富士山の周辺や富士山が見える関東一円を中心に分布し、平地では富士塚と称する富士山を模した築山の山頂に祀られていることも多く、また、境内に富士講の石碑も多く建てられています。
   浅間神社の語源については諸説あり、「浅間」は荒ぶる神である火の神であり、江戸時代に火山である富士山と浅間山は一体の神であるとして祀ったとする説や、「浅間」は阿蘇山を意味しており、九州起源の故事が原始信仰に集合した結果とも云われています。また、坂上田村麻呂が富士山本宮浅間大社を現在地に遷宮した時、浅間大社の湧玉池の周りに桜が多く自生していたため、桜と関係の深い伊勢の皇大神宮摂社である朝熊神社も同時に勧進し、朝熊神社を現地の人々が「アサマノカミノヤシロ」と呼んでいたため、その名を浅間神社にあてたとする説もあります。しかし、様々な説があるが、はっきりしていないのが現状のようです>>>More


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                                                       <巽神社>

   
鎌倉駅の北側、扇ヶ谷に巽神社があります。案内板によると祭神は、奥津日子神他2柱です。「荒神さま」として火神として崇拝されており、境内には諏訪社も鎮座しています。
   延暦20年(西暦801年)蝦夷征伐に向かう途中の坂上田村麻呂が葛原ヶ岡に勧請したのが起こりと云われ、永承四年(西暦1049年)に源頼義が改築したと伝えられています鎌倉五山の1つである寿福寺の巽の方向(南東)にあり鎮守であったと言われています。
   神社の前を通る道を由比ガ浜の方に辿ると、奈良時代に郡衙(今の役所)があったことを示す木簡が出土した御成小学校があり、鎌倉時代には、問注所(今の裁判所)であったとされています。更に道を辿ると、問注所で裁判にかけられた人が処刑されたという鎌倉の交差点でも最も有名な六地蔵の交差点があります。
   
その後、その場所は何を植えても育たない、饑渇畠(けかちはた)と呼ばれる不毛の土地になったそうで、それを示す石碑もあります。六地蔵は処刑された人の霊を慰めるために建てられたお地蔵さんだと思われます。
   なお、六地蔵の脇には松尾百遊という俳人が建てた芭蕉の「夏草やつわものどもが夢のあと」の句碑があります。
松尾百遊は雪ノ下で旅館を経営していた、芭蕉の弟子とされていますが、この句碑が建てられたのは芭蕉の死から92年後の天明6年(西暦1786年)ですので、直接の弟子ではないと思われます。また、問注所には当時阿仏尼も京都から裁判のためにやってきました。そのことを書いたのが「十六夜日記」で、極楽寺の月影谷には阿仏尼屋敷址もあります。>>>More

 
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                                               <刃稲荷>

   
今回ご紹介する刃稲荷は、鎌倉市史にも載っていない小さな稲荷で、神社とは言えないようなお稲荷さんです。しかし、背景には鎌倉として重要な歴史を秘めています。
   
鎌倉駅西口から寿福寺へ向かう途中を、山へ向かう小道に入り、緩やかな坂を上って、寿福寺墓地の手前の小さな洞門をぬけ、道なりに歩くと道脇に小さな稲荷社があります。この小さな稲荷社が、刃稲荷呼ばれているもので、正宗稲荷とも呼ばれています。
   刀鍛冶で知られる相州正宗の屋敷に祀られていた稲荷が屋敷と共に興廃してしまい、江戸期にここに再建されたと伝えられています。
   このあたりの家の下からは、建て直しの時に、刀を造るときに出る「かなくそ」が大量に出土したり、南北朝期と思われる、結わいたままの「かわらけ」も出てくるそうです。
   
刃稲荷一帯は、江戸時代には鍛冶谷と呼ばれ、また、佐助トンネルの東側には、刀鍛冶に必要な水が湧き出す正宗の井があり、刀鍛冶として一声を風靡した相州正宗の名残を留めています
   鎌倉時代末期の幕府ご用達の刀匠、相州正宗の伝統の技を受け継ぐのが正宗工芸24代目山村綱廣正宗工芸店主で、創業以来200年間鎌倉の伝統技術の伝え、現在も刀剣の製造をしているそうです。
   
正宗工芸では、今上天皇が皇太子だった頃に、守り刀を作った残りの鉄をいただいて、短刀を造ったことがあり、また、平成9年(西暦1997年)には、寒川神社のご神体の製作を依頼され、十本ほどの刀を造り、最終的には外装が、輪島塗の金粉入り、鍔止めが金無垢など豪華な二振りの刀がご神体とレプリカとして納められたということです。>>>More

 
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                                            <八雲神社(常盤)>

   
常盤の八雲神社は常盤地区の鎮守で、期限は治承年間(西暦1177〜1181年)に除災を目的として建てられ、祭神は、素戔雄命、速玉之男命、伊弉冊命と云われています。
   更に、慶弔年間(西暦1596〜1615年)に熊野神社を勧請して当社と合祀したと云われています。また、明治期に付近にあった御嶽神社・諏訪神社も合祀されたようです。
   
八雲神社は、かつて、すぐ隣の円久寺に属し、八坂神社、天王社と呼ばれていたようで、「厄除開運」の社として、地元では「八雲さん」、「お天王さん」と呼ばれて親しまれています。
   八雲神社という名前の神社は各地に存在し、その多くは素戔雄命を主祭神とする神社で、社名は日本神話において素戔雄命が詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」の八雲に因むものと言われ、総本社は京都の八坂神社です。
   
八雲神社は、他の素戔雄命を祀る神社と同様、江戸時代までは「牛頭天王社」と称していましたが、明治の神仏分離により「牛頭天王」という社号が禁止されたため、祭神を牛頭天王と習合していた素戔雄命に変え、社名も八雲に因んだものに変更したそうです。
   八雲神社のある常盤山に続く、常盤・梶原の山上には昭和41年(西暦1966年)に開設された野村総合研究所鎌倉研究センター跡地があります。平成14年(西暦2002年)に鎌倉市に寄付され、一部は緑地として残し、将来的には博物館・美術館の機能をもつ複合博物館と市民活動交流館の文化・教養施設が建てられるとのことです。>>>More

 

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                                                      <八坂神社>

   建久三年(西暦1192年)相馬次郎師常が屋敷地内に牛頭天王を勧請した神社で、はじめ巽荒神のあたりにありましたが、後に泉ガ谷の相馬師常墓に移り、網引地蔵の西の山麓、江戸初期の本堂脇を経て、享和元年(西暦1801年)に現在の地に移ったといわれています。
   室町時代以降、相馬師常を祀るとされことから相馬天王と称され、相馬天神と呼ばれていました。祭神は牛頭天王でしたが、明治初年の神仏分離に際して、社名を八坂大神と改め、祭神も素戔雄尊、桓武天皇、葛原親王、高望親王に変わりました。
   
また、ここの神輿は鉄製で荒ぶることが多かったため、師常の墓の近くに埋めてて新たに調達したといわれており、形は六角形で、京都・祇園社の神輿と同じ形だといわれています。
   
相馬師常は相馬氏初代当主千葉常胤の子で、父と共に源頼朝の挙兵に参加し、頼朝の弟源範頼の軍勢に従って各地を転戦しました。文治5年(西暦1189年)には奥州藤原氏の征伐に参加し、その功により頼朝から「八幡大菩薩」の旗を賜ったといわれています。
   常胤の子の内、師常のみが「胤」の字を継承していないのは、伝承によると、師常は平将門の子孫である篠田師国の養子であったため、将門に縁の深い相馬御厨(現在の鎌ケ谷市、柏市、流山市、我孫子市、野田市の一帯)を継承させたといわれています。
   
正治3年(西暦1201年)、父常胤が亡くなったために出家し、家督を嫡男の相馬義胤に譲り、出家後は法然上人の弟子となり、元久2年(西暦1205年)、鎌倉相馬邸の屋敷で端座し、鎌倉の民衆たちから見取られながら、念仏を唱えて臨終したという、信心厚く信望の厚かった最期が伝えられています。>>>More

 
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                                              <一向堂跡>

   
鎌倉市の常盤に一向堂という地名があります。『新編相模國風土記稿』には、深沢庄常葉村の小名に「一向堂」という名が見え、「僧唯善草庵蹟、村東山麓にあり、今陸田を開く。唯善は覚信尼の息なり。延慶二年(西暦1309年)密に大谷本廟に安置せる如信の彫刻せし親鸞の真影及び遺骨を取りて関東に下着す。当村に安置して念仏を弘通す。故に世の人これを常葉の真影と称せり。」とあり、『存覚一期記』にも同様の記述があり、唯善がこの地で念仏をひろめていたことようです。

   また、「戦国の際、兵火にかかりて廃蹟となり、今このへんの小名を一向堂と呼ぶもこの廃蹟によれるなり」しかし、その後「僧唯善草庵がこの附近に有ったが、戦国の際に兵火に罹りて庵が廃跡となった。」とあり、戦国時代の戦乱において焼けてしまったようです。
   
吾妻鏡に、治承5年(西暦1181)9月16日に、足利俊綱が郎党、桐生六郎、主の首を持参して、梶原景時が許に案内を申す。しかるに鎌倉の中に入れられず。直ちに武蔵大路より深沢を経て腰越に向うとあり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。云々」との大仏切通に関する記述があり、鎌倉幕府が開かれる前からあったのでしょうか。
   大仏切通し鎌倉七の一つであり途中に、切岸(きりぎし)というものが残っています。切岸とは幕府が七口に設置した関所のような施設で、通行人の監視をする共に、防護施設として兵を待機させておくための平場が設けられています。その周囲には土塁をめぐらされ、人工的に山肌を削り落とすなど、敵兵がよじ登れないようにし、更に、狭い切通しの中に巨石を埋めて、敵の馬が駆け抜けられないようにするなど、様々な仕掛けが施されています。>>>More

 
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                                              <岩舟地蔵堂>

   岩舟地蔵堂は、鎌倉ハイキングのランドマークとしてもってこいの形をしたお堂です。北鎌倉駅で横須賀線を降り、鎌倉街道を鎌倉に向かって10分ほど歩いていくと、向かって右手に長寿寺というお寺と「茶屋かど」というお店にはさまれた細い道、亀ヶ谷切通しの入口が目に入ります。
   
亀ヶ谷切通は、鎌倉から武蔵に通じる当時の重要な往還だった道で、車の通り抜けが禁止されています。樹木に覆われた峠道を登り、亀ヶ谷の由来が書かれた説明板のある頂上から一気に下り、住宅地の真っ直ぐな道を歩いて行くと、横須賀線と平行して流れる扇川に沿って走る小道との三叉路、瓶ヶ谷辻にぶつかります。この瓶ヶ谷辻に建つ多角形をしたお堂が岩舟地蔵堂です。
   この御堂は、古くから頼朝の娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられ、大姫の守り本尊でないかと云われている木彫りの地蔵と、後ろ奥には、この御堂の名の謂れであると思われる、鎌倉期に作られた、船形光背の石造りの地蔵が、安置されています。
   木造地蔵尊の胎内の銘札には「大日本国陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者〜頼朝公御息女の守本尊也」とあり、更に、元禄3年(西暦1690年)に堂を再建し、新たに木像を造立した旨が記されています。
   
また、「北条九代記」にも、許嫁との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなり、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。現在のお堂は、平成13年(西暦2001年)に再建されています。>>>More

 
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                                              <岩窟不動尊>

   鎌倉の八幡宮から寿福寺へと抜ける道の脇の小さな茶屋の裏庭に、岩窟不動尊があります。以前は、木々が生い茂り、少し薄暗い奥にある小さな岩屋の中に、お不動さまが祀られ、ろうそくの炎が揺らめく風情ある祠でしたが、現在は、茶屋の後ろには岩山が張り出しており、崖崩れなどの危険防止のためか岩窟は蓋がされ、不動尊は外に疎開し、岩窟不動とは言いがたい状況にあります。
   岩窟不動尊は、吾妻鏡文治4年(西暦1188年)正月大一日丁酉の条「去る夜自り雨零ちる。鶴岳へ御參例の如し。日中以後霽に属し、大風。佐野太郎基綱が窟堂下の宅燒亡す。焔飛ぶが如し。人屋數十宇災いす。鶴岳の近所爲に依て、二品宮の中へ參り給ふ。諸人竸い集まると云々。」の中に窟堂と書かれており、鎌倉幕府開闢(かいびゃく)以前からあったようです。
   もともと、この岩窟不動の前を通る道は、八幡宮などの鎌倉中心部から化粧坂を通って関東北部へ抜ける重要な道で、鎌倉時代には賑わっており、前出の吾妻鏡には、この付近にあった佐野太郎基綱宅で火災が起き、家屋が密集していたため数十軒に類焼したことを伝えています。
   岩窟不動尊の由来は確かではありませんが、鎌倉時代初期の鎌倉は、平安時代に高貴な人達の間で流行していた墓としての観音堂が、その後、鎌倉では土地が狭かったため「やぐら」と称する掘り込み式の墳墓になったと言われています。この岩窟不動尊は幕府が開かれる前からあったことや、岩窟の中にお堂があったことからも、その過渡期に造られた掘り込み式観音堂墳墓ではなかったとも推測できます。
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                                                                <英勝寺>

   
江戸を開いた太田道灌の子孫康資の娘で、徳川家康の側室となったお勝局(英勝院長誉清春)が開基、山号は東光山、鎌倉唯一の尼寺として知られる浄土宗の寺です。寺地には道灌の屋敷があったといわれています。第一世の庵主小良姫(清因尼)以来代々水戸家の娘が住持に入ったため、水戸家の尼寺とも呼ばれ、寛永13年(西暦1636年)に造られた、創建時の面影を残す仏殿、祠堂、唐門、鐘楼は県重文に指定されています。

   
仏殿内部には徳川家光寄進の運慶作と伝えられる阿弥陀如来、観音菩薩及び勢至菩薩が本尊として祀られており、天井と周辺には極楽を思わせる華麗な装飾や水戸徳川家の三つ葉葵、太田家の桔梗の紋、鳳凰の絵などが見られ、格式の高い尼寺の姿を伝えています。
   鐘楼は、他ではあまり見られない袴腰付楼閣形式で、建立は寛永20年(西暦1643年)、梵鐘には林道春撰の銘文の末尾に「寛永二十年五月吉日 法印道春撰 治工大河四郎左衛門吉忠」と刻まれています。
   道灌といえば、山吹の伝説を知らない人はいないでしょう。道潅が、父を尋ねて越生の地を訪れたある日のこと、鷹狩りにでかけて突然の俄雨に遭い、農家で蓑を借りようと立ち寄ると、娘が一輪の山吹の花を差し出しました。道灌は蓑を借りようとしたのに花を出され、内心腹立たしく思い雨の中を帰って行ったとのです。後でこの話を近臣の一人にしたこところ、それは後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(蓑)一つだに なきぞ悲しき」の歌に掛けて、蓑ひとつなき貧しさを伝えているのだと教えられ、古歌を知らなかった自分を恥じて道灌は歌道に励んだといいます。
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                                                                   <圓久寺>

   
山号は常葉山、院号を感光院と云い、文明年間(西暦1469〜1487年)に開創されたと伝えられる日蓮宗の古刹で、開山は日伊上人(日惺上人)と云われ、江戸時代には池上本門寺・鎌倉比企ヶ谷妙本寺の末寺だったそうです。
   現在の地名である「常盤」は、この常葉山という呼称により常葉村と呼ばれるようになり、現在の地名である常盤となったと云われています。
   圓久寺の境内裏側一帯は、鎌倉前期頃「常盤殿」と称される第七代鎌倉幕府執権「北条政村」の屋敷があったとされています。
   
鎌倉は前を相模湾、後ろを山で取り囲まれた自然の要塞ですが、更に、外周を有力御家人が囲んで守りを固めていました。中でも常葉山の外側は最重要拠点で、源氏山、御成山の外側共々7代執権北条政村が守っており、後に、新田義貞もここを攻略し、鎌倉に攻め入りました。なお、このあたりは「北条氏常盤邸跡」として国の史跡に指定されています。
   その後、関東大震災で本堂は壊滅しましたが、すぐに再建されました。本来、寺院は宮大工によって建設されるのを常としますが、再建された本堂は、寺院建築を知らない職人が携わったためか、通常の寺院とは異なる左右非対称になっており、質素で大変珍しい佇まいです。本堂には、本尊の一塔両尊をはじめ、室町期の作と伝えられている日蓮聖人像、釈尊像、鬼子母神像も祀られています。
   
日蓮聖人像には有名なエピソードが残っています。その昔、住職が留守にしているはずの本堂から読経が聞こえてきたので、村人が不思議に思い、本堂を覗いてもみましたが、人影はなく、よくよくみると日蓮聖人像が、住職に代わって朝夕のお勤めをしていたそうです。この伝承により日蓮聖人像は「読経の祖師」と呼ばれています。>>>More

 
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                                                <海蔵寺>

   臨済宗建長寺派の寺で、山号は扇谷山
海蔵寺もともとは真言宗のお寺でしたが、建長5年 (西暦1253年)藤原仲能(ふじわらなかよし)がここに七堂伽藍(しちどうがらん)を再建しました。しかし、その時の寺は元弘3年(西暦1333年)の鎌倉幕府の滅亡と共に消失しました。その後応永元年 (西暦1394年)、鎌倉公方足利氏満の命令を受けた上杉氏定が、心昭空外を招いて再建しました。寺宝には腹部に薬師の面部を納めた薬師如来坐像などがあります。

   山門の右側に、和歌の一節を名の由来とする底脱ノ井があります。その詠み手は安達泰盛娘とも、上杉家尼ともいわれており、薬師堂裏のやぐら内にある十六の井とともに鎌倉十井に数えられています。
   
この寺の薬師如来には不思議な伝説が伝わっています。
   
ある年のこと、寺の裏山から毎日なんとも悲しげな赤ん坊の泣き声が聞こえてくるので開山が行ってみると、泣き声は古ぼけた墓石の下から聞こえ金色の光がもれ輝いていたといいます。そこで開山が経を読み袈裟で墓石を覆ったところ泣き声はやみ、翌日そこを掘ってみると立派な薬師の面が出てきたので、新たに薬師如来像を建立し、そのお面を胎内に納め祀ったのが現在の本尊といわれています。この伝説から本尊は別名「啼薬師」(なきやくし)「児護薬師」(こもりやくし)と呼ばれ、子育てにご利益があるそうです。
   不思議といわれている話はもうひとつあります。それは十六ノ井の話です。
   
再中興開山が住世のとき、観世音菩薩が禅師の夢枕に立って、数度の天災のために埋もれた、此の井を掘りだして掃除をさすれば、清水湧き出て再び霊験があらわれんと告げました。禅師は、教えの通り掘りだすと井戸が現れ、観世音菩薩像もでてきました。そこで、窟中の水を加持し衆生に与えたら、霊験あらたかであったと扇谷山海蔵略寺縁記に伝えています。>>>More

 
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                                                                   <寿福寺>

   寿福寺は正式には亀谷山寿福金剛禅寺と称し、開山は明庵栄西で、開基は初代将軍源頼朝の婦人政子です。

寿福寺の地は、三浦氏の一族である岡崎義実が、頼朝の父、義朝の菩提を弔うために建てた草堂の跡で、頼朝が初めて鎌倉に入った治承4年(西暦1180年)に訪れています。
   
寿福寺の造営が終わった時期ははっきりしていませんが、正治2年(西暦1200年)7月15日に佐々木定綱が調進した十六羅漢図の開眼供養が寿福寺で行われ、当寺の長老である栄西を導師として、政子が聴聞のために参堂していることが吾妻鏡に載っており、この頃に一応落成したとみて良いと思われます。
   この正治2年は源頼朝が亡くなった次の年で、梶原景時・景季親子の反乱も起きています。その後、平家討伐に功績のあった有力御家人である三浦義澄、千葉常胤が次々に亡くなると、北条氏による横暴が増々激しくなり、それに反抗して城長茂の乱、比企能員の乱、和田義盛の挙兵が起きています。
この間、政子は、実の子供たち(頼家・実朝)には冷徹なほど、世の流れを冷静に読み、実家北条氏の隆盛を成し遂げました。

   寿福寺は寺院の規模こそ大きくありませんでしたが、源義朝の旧邸跡に建てられたこともあり、将軍頼家、実朝、尼御台の参台も多く、当時としては最も新しい智識と精神が胎動する根拠地でありました。宝治3年(西暦1249年)及び10年後の正嘉2年に全焼しましたが、鎌倉時代の末には、開山塔の逍遥庵を初め15の塔頭を数え、南北朝に大部分が成立しています。>>>More

 
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                                                                  <淨光明寺>

   
この寺は、
古義真言宗泉涌寺派で山号は泉谷山といい、建長3年(西暦1251年)真阿(真壁国師)を開山とし、6代執権北条長時が建立されました。当初は、浄土教色の強い寺でしたが、次第に真言・天台・禅・律の四宗兼学となり、現在に至っています。
   元は、源頼朝の発願で文覚上人が不動堂を建てたことに始まり、中に納められている不動明王像は文覚上人が平家討伐祈願の為に、京都に行って背負って来たものといわれています。
   中先代の乱後、足利尊氏・直義の保護を受け、鎌倉公方足利満兼の菩提寺となり、一時、足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたと伝えられています。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、寺領や仏舎利の寄進を受けたと古文書にもあります。
   
本尊の阿弥陀三尊像は鎌倉時代後期正安元年(西暦1299年)の作で、重文に指定されています。
   裏山を登っていくと、途中の山腹に大きなやぐら(横穴)があり、中には網引地蔵が祀られています。その昔、由比ヶ浜の漁師の網にかかって引き揚げられたという伝説の地蔵だということです。さらに登っていくと、歌道の名門、冷泉家の祖、冷泉為相の墓があります。この寺にはそのほかに、皆さんの好奇心をくすぐる観音さまがあります。中国唐の時代、世界三大美女の一人ともいわれる楊貴妃の死を嘆いた玄宗皇帝が、仏師に命じて妃に似せた一体の観音像を彫らせたそうです。その500年の後、日本から渡った留学僧がこの像(楊貴妃観音)を譲り受け、日本に持ち帰って、京都泉涌寺に安置し、泉涌寺の末寺である浄光明寺にも模刻の像を寄進しました。
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                                              <多宝寺跡>

   
多宝寺の開山は忍性、開基は北条業時、開創の年次は弘長2年(西暦1262年)、浄土(諸行本願)・華厳・真言・律宗兼学の寺であったことが明らかになっています。
場所の入口は、鎌倉十井の泉ノ井の少し先を左に入ったところにあったそうで、現在、その場所に、日蓮宗の妙伝寺のお寺があり、名残として、「多宝寺覚賢長老遺骨也」と書かれた巨大五輪塔(重文)があります。
   
多宝寺は極楽寺・称名寺とならび、鎌倉における西大寺系律宗の拠点寺院として栄えたとされていますが、文献上に残された記録は少なく不明な点が多いそうです。廃絶年代は『享徳日記』享徳元年(西暦1452年)十二月条に「多宝寺」の名があることからの存続年代の下限を示す史料とされています。
   『新編鎌倉志』巻之四には「此東峯(藤谷の峯、筆者)を越て、多宝寺谷と云所あり。寺はなし。」とあり、『新編相模国風土記稿』第四集(名著出版、1972年、27頁)にも、浄光明寺の多宝塔の項に、「古当寺ノ支院ニ。多宝寺ト云ヘルアリシカ。今ハ廃シテ此塔ノミ存セリ。」とあり、江戸時代には、既に、多宝寺の事跡は不明になっていたようです。
   
多宝寺は小袋坂切通を北東に控え、鶴ヶ岡八幡宮とは山一つ隔てた軍事的な要衝地にあったとされ、発掘調査でも石垣が見つかり、中世山城的様相がみられることが指摘されています。多宝寺近くにある化粧坂は中世には商交易の場で、伝説によれば遊女が住みついていたとされ、かつ、処刑場で、周辺にはやぐらがあることから墓場でもあり、霊的にもこの世とあの世の境界であったと考えられています。
   多宝寺やぐら群などの思想背景には、寺堂や霊山を現世における他界とみて、死霊の依代となる骨を納めて死者の浄土往生を願ったのであると云われています。>>>More

 
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                                               <妙伝寺>

   妙伝寺は日蓮宗のお寺で、山号は多宝谷山といい、承応元年(西暦1652年)江戸(東京都文京区)白山に創建され、道路拡張によって、昭和49年(西暦1974年)鎌倉に移転してきました。本尊、寺宝、寺史などは戦災によって消失していますが、旧本尊は妙見北辰菩薩で平安時代ごろから信仰されています。
   場所の入口はわかりにくいですが、鎌倉十井の泉ノ井の少し先を左に入ったところにあり、その場所に、過って、極楽寺と同じ律宗の多宝寺と言うお寺があったそうで、その名残として、「多宝寺覚賢長老遺骨也」と書かれた巨大五輪塔(重文)があります。

   妙見北辰菩薩信仰は、中国で古くから信仰の対象とされてきた北極星信仰が、密教と結び付いて妙見(北辰)菩薩の信仰となり、更に、日本に伝わって北極星と北斗七星が同一視されて、仏教の各派や修験道に広く信仰され、国土を擁護して人民安楽をする仏、妙見菩薩はとして信仰を深めてきました。
特に日蓮宗では、鎌倉時代の文永2年(西暦1265年)宗祖、日蓮が上総国鷲巣の小早川家に滞在の折、国家平穏を願って祈ったところ、にわかに明星(金星)が動き出し不思議な力をもって鷲妙見大菩薩として現れ出でたと伝っておりその日が11月酉の日のことだったということです。その姿は七曜の冠を戴き、宝剣をかざして鷲の背に立つことからから「鷲大明神」とか、「おとりさま」と呼ばれ、現在でも開運招福の守り本尊として親しまれ、浅草「酉の市」の本尊として広く知られています。
   妙見北辰菩薩信仰は、また、豪族や武家の間に信仰されており、日蓮の生誕地である安房の千葉氏が、日蓮宗に帰依し、妙見菩薩を守護神としたことから、北斗七星信仰と日蓮宗を結びつけたのは千葉氏ではないかとも云われています。
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                                                <薬王寺>

   正式の名称は、
日蓮宗大乗山薬王寺。もともとは真言宗に属し、梅領山夜光寺と称していましたが、永仁元年(西暦1293年)に肥後阿闍梨日像聖人が改宗して、法華経受持の寺院となり、大乗院日達上人のときに当山の興隆を迎えました。
   
日達上人は、広島の本山国前寺の住職であったが、徳川が禁止した不受不施説を唱えた為に、幕府の忌避にふれ、寺を追われて各地を行脚しつつ九ヶ寺建立し、衰微していた三ヶ寺を復興した信行兼備の高僧でした。当山はその中の一ヶ寺で、七堂伽藍完備の立派な寺院を完成した中興の祖です。
   
その後、寺は衰微しましたが、寛永年間(西暦1624年〜1643年)に日達上人が中興しました。本尊は薬師如来、今の本堂は享保年間(西暦1716年〜1735年)の再建で、庭先には駿河大納言徳川忠長の供養塔があります。建立したのは織田信長の嫡子信雄の息女で、徳川忠長の夫人です。
   更に、会津若松蒲生氏郷の孫忠知(四国松山城主)の奥方と息女の寶筐印塔の墓があり、徳川・蒲生両家のゆかりの寺として、寺紋に三葉葵が用いることが許されている格式の高い由緒ある寺です
   その後、明治に入って排仏毀釈の騒ぎが起こり、その騒ぎに便乗した看坊(公卿あがりの僧)が財産什宝等を売り払い、遂には無住職寺になりましたが、大正3年第50世海栄日振上人が師の命に従い復興に着手し、2代70年の努力によって現在の山容が整えられました。>>>More

 
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