





平成22年 第8回鎌倉Walk
8月6日(木)〜8月9日(日)
ぼんぼり祭
幻想的雰囲気でした。
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古都の道標(みちしるべ)
<銭洗い弁天の石碑(5)>

佐助トンネルの峠路を下り、左に折れるといよいよ銭洗い弁天。最後の「心臓破りの山路(やまみち)!」を登りきると銭洗い弁天に通じるトンネルの入り口に辿りつく。
山路を登りながら、こう考えた。
吾、世に住むこと五十五年にして、住むに甲斐ある世と知った。明治の文豪夏目漱石は二十年にして悟ったそうであるが、吾文豪に遅れること三十五年、恥ずかしいと思えど、致し方なし。六十年にして定年後の明暗は表裏のごとく、職場に顧問として残ってのあたる所にはきっと影がさすと悟った。六十五の今日はこう思っている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖(ふ)えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろう。ここまでは文豪と同じである。しかし、閣僚の肩は数百万人の足を支(ささ)えている。背中には重い天下がおぶさっている。と文豪は言っている。今はどうか。民主党の政治を見ているとこんな考えはうかぶまい。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。・・・・・・。そうだ文豪は胃潰瘍に悩まされていた。
吾の考えがここまで漂流して来た時に、吾の右足は突然坐(すわ)りのわるい角石の端を踏み損(そ)こなった。平衡を保つために、すわやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合せをすると共に、余の腰は具合よく方三尺ほどな岩の上に卸(お)りた。肩にかけたデジカメが腋の下から躍り出しただけで、幸いと何の事もなかった。
顔を上げると向うに銭洗い弁天の石碑とトンネルに向う石の鳥居が坂路の左方に立っていた。
銭洗い弁天の正式名は、銭洗弁天宇賀福神社で、御神体を祭る洞窟の水には、以下のような言い伝えがある。
銭洗い弁天の霊水は、鎌倉五名水のひとつである「銭洗水」で、この水でお金を洗うと10倍にも100倍にも増えるといわれ、巳の日ともなると多くの参拝客が訪れて、小さなザルにお金を入れて洗う姿が絶えない。中にはお札を洗う人もいるそうだが、「十分ご縁がありますように」と言う意味で、15円を洗うだけでも良く、10円玉は使って、5円玉を大事に財布の中に入れておくと一層の御利益があるという。文豪夏目漱石も「金は大事だ、大事なものが殖(ふ)えれば寝る間も心配だろう。」と思いながら、15円を洗ったのであろうか。当時の15円であれば、もう十分にご利益を受けているはずである。
帰途は法務局前の信号まで出、左折して鎌倉駅に至る。途中市役所の向いに諏訪神社が人知れず建っている。
現在、鶴岡八幡宮で毎年行われている春秋の例大祭の流鏑馬神事を披露している武田流の素として名が上げられている諏訪盛澄と関係のある社と云われている。>>>More

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<啓運寺>
正式な名前は松光山啓運寺いい、日蓮宗のお寺で、創建は 文明15年(西暦1483年) 、 開山は啓運日澄上人、本尊は三宝祖師 です。場所は、大町四つ角から三浦道踏切を越えて海方向に行くと水道路という交差点があり、さらに直進して少し行くとやがて「南無妙法蓮華経」とかかれた石碑があります。
日澄は、文亀3年(西暦1503年)55巻から成る「啓運抄」という法華教の研究書を出すなど学僧として知られ、当初は、大町の妙法寺の住職でしたが、文明25年(西暦1483年)に当寺を創建して移ったといわれています。日澄の死後は、明治末まで長勝寺が住持を兼任し、無住の寺となっていました。
現在の本堂は、昭和8年(西暦1933年)に再建されたもので、寺には江戸期に作られた日蓮上人像があり、本尊三宝祖師像も新しいようです。また、かつては境内には、漁師の信仰を集めた「船守稲荷」ありましたが、現在は、稲荷本尊である神体木造船守稲荷神は像本堂に祀られています。

明治時代には、日本近代洋画を確立した画家の黒田清輝が本堂をアトリエに使ったこともあるといい、黒田は辻説法のシーンなどを描いています。
黒田清輝は明治26年(西暦1893年)27歳のとき、9年にわたるフランス留学を終えて帰国しました。法律家を志して渡仏しながら、絵に興味を抱くようになり、文化の重要性や自らの資質の認識から画家へ志望を転向、外光派のサロン画家ラファエル・コランに師事、アカデミックな絵画教育を受けて明治24年「読書」でサロンに入選しました。
黒田清輝を迎えて、日本の洋画界は大きな変化を遂げていきます。それまでは明治9年(西暦1876年)開校の工部美術学校でイタリア人画家フォンタネージが指導したバルビゾン派風の作品が主流をなしていましたが、黒田清輝は、変化する光と大気の微妙な様を描き分ける、明るい色調の外光派風の作品や西洋美術の伝統に基づいて人体を描くことを重視し、裸体デッサンを絵画制作の基礎として定着させていきました。>>>More

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独思録:「前首相の変節」
晩夏のある日、鳩山前首相は東京から残暑とマスコミを逃れるために長男紀一郎氏の夫妻が所属する東京都の「文京区民オーケストラ」の公演を見にモスクワ出かけて行った。モスクワの訪問は祖父鳩山一郎元首相以来の鳩山家のロシア好きと見えることは誰でももう知っていることであろう。
現に日本のアマチュア楽団がロシアで公演するのは異例で、「この間の楽器運送費などを工面するため日ロ両国の企業などに支援を募り、実現にこぎ着けた。」などと新聞にも掲載されていた。
演奏会は、紀一郎氏が2年半前、モスクワに移り住む際に提案され、ラフマニノフなどのロシア作品に続き、林英哲氏の和太鼓や、モスクワのボリショイ・バレエで活躍する岩田守弘氏らの踊りをも誘って、鳩山前首相にとって「日本とロシアの文化交流が素晴らしいハーモニーを生んだ。」とご満悦であったようだ。
不相変(あいかわらず)国民には理解できぬ鳩山前首相は、政界引退を口にした舌の根も乾かぬうちに、民主党の結束を訴えて菅首相、小沢前幹事長の仲介役を買って出た。
国民不在と見える党の井戸端会議でせっせとポンプを動かしていた。鳩山前首相は「大義」という理解できぬ言葉を挙げ、小沢前幹事長にちょっと合図をした。
「代表戦に立候補して下さい。――やあ、山岡国会対策委員長も来ていたのか?」
小沢前幹事長は前首相が菅首相と一緒に代表戦を戦うものと思っていたらしかった。
「僕等は民主党の結束の仲介役を買って出たんだが、菅君は拒否したので、小沢君、一緒に行かないか?」
「蜃気楼か? ――」小沢君は急に笑い出した。
「どうもこの頃は蜃気楼ばやりだな。」
鳩山前首相と小沢前幹事長が会談し後、鳩山前首相はもう伝書バトよろしくロシアに向けて飛び去った。
民主党の現状は、砂原に牛車(うしぐるま)の轍(わだち)が二筋、黒々と斜めに通ったように分裂の気配を残していた。党員の中にはこの深い轍に何か圧迫に近いものを感じた。先の見えぬ宇宙人の仕事の痕(あと)、――そんな気も迫って来ないのではなかった。
「民主党は健全じゃないね。ああ云う党内の騒ぎを見ると、妙に思ってしまうんだよ。」
国民の大半は眉(まゆ)をひそめたまま、何とも鳩山前首相の言葉に答えなかった。が、鳩山前首相の心もちは小沢前幹事長にははっきり通じたらしかった。
「新時代ですね?」
鳩山前首相の言葉は唐突だった。のみならず微笑を含んでいた。新時代?――しかし国民は咄嗟(とっさ)の間に鳩山前首相の「新時代」を発見しただろうか。<芥川龍之介「蜃気楼――或は「続海のほとり」――よりの連想>
それは小沢前幹事長と自分の政治資金問題をうやむやにする最良の手段だったのかもしれない。小沢首相が出現すれば、検察審査の議決に一切介入したと同じではないか。>>>