<鎌倉山周辺神社仏閣一覧>
鎌倉山神社・経六稲荷・龍口明神社・三嶋神社・青蓮寺・仏行寺
<非公開の仏像や撮影禁止場所の写真は鎌倉シニア通信のお寺さん等より引用しています>
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<鎌倉山神社>
鎌倉山は高級住宅街として有名ですが、その他に、鎌倉山ロ−ストビ−フや懐石料理のらい亭、そして、おしゃれな喫茶店やレストランなどがあり、また、鎌倉でも随一の桜の名所です。
その鎌倉山に、名の通りの鎌倉山神社があります。鎌倉山神社は、この地域の鎮守で、とてもこぢんまりとしており、深い木々に覆われて雰囲気が良く、七里ガ浜が見渡せ、晴れた日には、富士山も綺麗に見ることができる所です。
元は三島神社で、通称山の神と言い、祭神は大山津見命、例祭8月8日、現在は8月第二日曜に行っています。境内は私有地180坪程で、社殿があります。
この付近の地は、津村の共有地でありましたが、笛田村が借りて開発し耕地とし、本村笛田村の鎮守三島神社の分霊をここに遷して、三島神社を建立していたそうです。しかし、昭和21年(西暦1946年)宗教法人令により今の名に改めました。その当時の氏子戸数は200戸、設立者は村岡忠四郎だと鎌倉市史社寺編に記載されています。
鎌倉山は昭和4年(西暦1929年)に分譲が開始された住宅地で、腰越・深沢にまたがっている地域でおり、「鎌倉山」という名称自体は、万葉集の古歌にも見え、「新編鎌倉志」という江戸時代の史料には、大臣山(鶴岡八幡宮裏山)と記されています。
相模風土記の解釈や、その他の史料を見ると、どこか特定の山のことを「鎌倉山」と称したわけではなく、鎌倉の山々、ひいては鎌倉の地全体を古く「鎌倉山」と称したようですが、この地域が「鎌倉山」と称されたのは、この地を住宅地として開発した実業家の菅原通済によるそうです。>>>More
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<経六稲荷>
経六稲荷(きょうろくいなり)へは、湘南モノレールの西鎌倉駅から100メートルほど腰越方向に下り、角の明神社への標識を、鎌倉山住宅へと左折し、250メートルほど坂を上ると、龍口明神社の大きな鳥居が見え、そのすぐ手前の駐車場の奥に、経六稲荷の鳥居があります。
経六稲荷の境内、鳥居を入った右手に庚申塔があります。この庚申塔は腰越に向かう道路の脇にありましたが、道路工事に際してここの移転されました。
庚申塔は、青面金剛像が2基、庚申供養塔が2基、石の祠、そして丸みを帯びた石柱の6基立っています。
左端と4番目の2基は、双方とも上辺に日月を浮き彫りがされた合掌六手の青面金剛像で、左端の1基は、下部に三猿が彫られ、4番目の1基は邪鬼の上に立っており、それぞれ正徳3年(西暦1713年)と安永3年(西暦1774年)に建立されたようです。
2番目と3番目の供養塔の下方には三猿が彫られ、それぞれ文政11年西暦1827年)、弘化5年西暦1848年)の1800年代に建立されたようですが、右側の2基の建立年代はわかりませんでした。なお、右端の丸みを帯びた石柱には山王台権現の文字が彫られています。
青面金剛は、インド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し、元来は疫病をもたらす悪神でしたが、江戸時代に爆発的に流行した「庚申待ち」という民間の宗教行事では、逆に病魔や災難を遠ざけるための鬼神として重用され、民間信仰の対象となり崇拝されていました。>>>More

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<龍口明神社>
龍口明社神は、湘南モノレールの西鎌倉駅から100メートルほど腰越方向に下り、角の標識に従って、鎌倉山住宅へと左折し、250メートルほど坂を上って行くと大きな鳥居が見え、すぐに分ります。近くの駐車場の奥には経六稲荷神社があります。
龍口明神社は、江の島の創世伝説である「天女と五頭龍の伝説」に登場する神社であり、欽明天皇の勅命により江の島の岩屋に宮を建てた頃とほぼ同じ宣化3年(西暦538年)の創建で、鎌倉で最も古いものです。
龍口明神社と江島神社は夫婦で、御祭神の玉依姫命は海神族の祖先、龍神の化身と言われ、御神体は伝説に登場する五頭龍の御木像です。
元あった場所は龍口山(片瀬山)で、現在の江の電江の島駅近く、竜口寺付近で、龍口寺背後の山並が、龍が海に向けて口を開けている姿に見えるため、その口にあたる所を龍口と呼んだことに由来します。かつては藤沢市片瀬龍口の龍口寺隣に建っていたが、昭和53年(西暦1978年)に現在の地へと移転しました。
例祭は10月上旬の土・日曜日で、神輿渡御が行われ、60年に1度の還暦の巳年大祭では五頭龍大神の御神体が御輿に乗って江ノ島に移動します。
伝説によれば、鎌倉には昔、五つの頭を持つ龍がいて悪行を重ねていましたが、弁財天が天から舞い降り、天女に恋心を抱く五頭龍を諭し、悪行をやめさせました。この五頭龍をまつるのが龍口明神社で、その後、五頭龍は海を離れ、山に姿を変えました。これが現在の藤沢市龍口山で、天女の天下りとともに出現した島が現在の江ノ島です。>>>More
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<三嶋神社>
三嶋神社は、鎌倉山の超高級住宅地に隣接する、鎌倉市笛田にある笛田の鎮守様で、地元の人々に親しまれています。祭神は大山津見命(大山祇神)で、本殿、拝殿、社務所があり、毎年は4月15日に例祭が行われています。
勧進の年月は未詳で、風土記稿には「往古は宮ノ崎にあったが、水上に祀れという神託があったので、萩ノ郷に移し、その後、また現在のところに移したという。もとは仏光寺(現、仏行寺)が管理していた。」と記されているそうです。(鎌倉市史寺社編)
境内には、一対の狛犬が端整な姿をして並んでいます。建立は比較的新しく、昭和6辛未年(西暦1931年)11月と刻まれており、笛田在住の石工岩崎金太郎が刻んだとあります。
右側には毬を持つ子をあやしている阿形の狛犬、お母さんでしょうか。左側には毬にじゃれている吽形の狛犬、毬の内部はくり貫かれて、玉が入っており、尻尾は左右とも真中尾立ちで、体側面へ巻き込んでいます。丹精込めて作られたことが見て取れます。
三島神社は、伊予大三島の大山祇神社か伊豆の三嶋大社と関係のある神社で、北海道を除く日本全国に分布し、特に愛媛県・静岡県を始め、大分県・福岡県・高知県・新潟県・神奈川県・千葉県・福島県に比較的多く存在し、総数は約700社もあるということです。
祭神は大山祇神で、大山祇神の妃神である伊古奈比盗_や御子神の木花開耶姫神・岩長姫神を配祀していることもあるほか、大山咋神を祀る三島神社もあるそうです。
関東・伊豆には、源頼朝が伊豆・三嶋大社を崇敬していた関係から、鎌倉武士により三嶋大社より勧請されたと伝える三島神社が多く、この三嶋神社も三嶋大社より勧請されたとみるべきではないでしょうか。>>>More
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<青蓮寺>
正式名称は、飯盛山仁王院青蓮寺で高野山真言宗のお寺です。開山は空海(弘法大師)、長禄年間(西暦1457〜9年)に善海によって再興されたといわれています。本尊は弘法大師空海(鎖大師)で、一般に広く「鎖大師」の通称で親しまれています。
鎖大師(木像弘法大師坐像)は、目は玉眼、爪は水晶で造られており、鎌倉時代の貴重な裸形彫刻として重要文化財に指定されています。江戸時代初期の文献「新編鎌倉志」には「弘法自作の木造あり。鎖大師というなり。鎖を以って膝を屈伸するように造る故に名づく。」と記載されています。手足が動くため、纏われている絹の衣を着替えることができ、大きさも等身大で、大師信者とお大師様の心が鎖のように強く結ばれますようにという願いが込められています。
弘仁10年(西暦819年) 弘法大師が東国を巡暦された際、鎌倉にとまって17日間の護摩の秘法を修されたとき、美しい天女(江ノ島弁財天)があらわれ護摩の助法や斎食の給仕をしたそうです。大師は無事修法を終えると、天女は一粒の仏舎利を大師に奉り、その姿は忽ちのうちに見えなくなりました。翌朝眼を覚ますと、側の池には青色の美しい蓮華が咲きほこっていたといわれています。当寺はその故地に因み、飯盛山青蓮寺の寺名がつけられています。
鎖大師は、弘仁7年(西暦816年)嵯峨天皇の命により弘法大師が諸国行脚の旅に出る時、天皇との別れを惜しんで、等身大の像を鏡に向かって作り、着ていた衣服・法衣・念珠・五鈷などをつけ、天皇に献上したといわれています。
天皇が亡くなった後、大和(奈良県)の岡寺に移され、さらに後に鎌倉鶴岡八幡宮に移され、等覚院の蓮華定院に安置されました。明治維新の神仏分離の時、八幡宮の所属する近くの松源寺に移され、その後、寿福寺を経てこの青蓮寺に移されたと伝えられています。>>>More
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<仏行寺>
仏行寺は日蓮宗の寺で、もとは妙本寺の末寺だった寺です。山号は笛田山といい、明応4年(西暦1495年)仏性院日秀の開山で創建されました。裏山の墓地には、丸く土盛にされた塚、源太塚があり、梶原景時長男、景季の片腕を埋めた塚であるといわれています。また、妻信夫の塚である「しのぶ塚」もこのあたりにあったものとされています。
伝説によると、むかし、梶原源太景季が一族とともに鎌倉を追われ、狐崎(静岡)付近で戦死したとき、妻の信夫がひどく悲しみ、今の仏行寺の裏山に登って自害したそうです。その霊は、長くこの地に残り、毎夜、夫を慕う泣き声が聞こえ、付近の村人たちが信夫の霊を慰めるために仏行寺を建てたといいます。
梶原の先祖は、桓武平氏の流れを汲む鎌倉氏で、鎌倉権五郎景政のとき、後三年の役で源義家に従い、若干16才ながら勇猛な働きをしたとして名高く、その流れを汲む梶原氏は鎌倉一帯に一勢力をなしていました。
源平の合戦では、景時、景季親子は共に活躍し、平家討伐に多大の功績を残しましたが、建久十年(西暦1199年)に頼朝が没すると、跡を継いだ頼家を支える側近第一の梶原景時は、政権を狙う北条時政、時義の粛正の的として狙われ、三浦義澄、和田義盛、畠山重忠らの実力者を中心とした御家人六十六名の弾劾を受けた形で失脚しました。
翌年、一族郎党を引きつれて京都に向かう途中、朝廷と結んで謀叛企てたかどで、幕府軍の追討を受け、駿河国清美関(静岡県清水市)で同国御家人の迎撃に遭って討死しました。その後、三浦義澄、和田義盛、畠山重忠らも同様の憂き目に遭って滅亡しています。
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