<鎌倉駅周辺神社仏閣一覧>

              愛宕社宇都宮稲荷志一稲荷白旗神社鶴岡八幡宮蛭子神社八雲神社

            勝長寿院跡
東勝寺教恩寺
常栄寺大巧寺寶戒寺本覚寺妙本寺妙隆寺


                     <非公開の仏像や撮影禁止場所の写真は鎌倉シニア通信のお寺さんより引用しています>

                                            このホームページに掲載されている資料を使われる方はご連絡下さい。
                                                                                                         <問い合わせ先>



                                                                   <愛宕社>

   鎌倉駅前広場の左手にある赤い鳥居から、観光客で賑う小町通を鶴岡八幡宮方面に進み、北鎌倉方面から鶴岡八幡宮の境内に沿って行くと、鳥居前を東西に走る横大路と交差する三叉路の角にある鎌倉十井の一つ鉄の井(くろがねのい)に出ます。その手前を左に曲がり、岩窟不動の前を通る窟堂小路(いわやこうじ)を進むと、旧喜多川邸を過ぎた所に愛宕社はあります。現在、入口は竹垣で上には登れないように閉ざされており、下から覗くと古びた祠が見えます。
   
鎌倉幕府の公式文書である吾妻鏡の文治4年(西暦1188年)正月大一日丁酉の条に「去る夜自り雨零ちる。日中以後霽に属し、大風。佐野太郎基綱が窟堂下の宅燒亡す。焔飛ぶが如し。人屋數十宇災いす。」とあるように、この一帯は屋敷が多く、また、數十の屋敷に及ぶ大火事があったため、火伏せの神である愛宕社がここに祀られたと推測されます
   愛宕社は、雷神(いかづちのかみ)・迦遇槌命(かぐつちのみこと)・破无神(はむしのかみ)を祀り、京都市右京区の山城・丹波国境の愛宕山山頂にある愛宕神社を総本社に、全国約900社に及ぶ、火伏せ・防火に霊験のある神社として知られています。
   愛宕信仰は、中世末期〜近世初頭から全国に展開されていったとみられ、本来は、京都盆地内の一山岳の神だったようですが、都の守護としての将軍(田村麻呂)信仰、陰陽道(東北鬼門に対する北西神門)等が重層し、愛宕山が聖地となっていったようです。
   
愛宕「火伏せの神」というイメージは、治承元年(西暦1177年)京都を巽方から乾方に焼いた「太郎焼亡」の大火において、火災に遭わない「焼け止まり」の方角に愛宕社があったことから言われるようになったと思われます。>>>More

 
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                                                                <宇都宮稲荷>

   宇都宮稲荷神社は、宇都宮朝綱の祖先藤原通兼関白の曽孫宗円が、日光山宇都宮神社の別当職にあったため、当地にその分霊を勧請し、稲荷神社を建てたと云われています。神社の前には辻子幕府跡の石碑がたっており、その敷地の広さは東西、南北とも約200mだったと推定されています。
   嘉禄元年、北条政子が亡くなり、源氏三代の政権が終わると、北条泰時は北条政権の確立を図り、この地に新しい御所を移転しました。北条泰時は、この御所で新将軍・藤原頼経の元服式を行い、武家の初の法律、御成敗式目を制定しました。しかし、この新御所では権力闘争に伴う陰謀術数が渦巻き、嘉禎2年(西暦1236年)、僅か12年で若宮大路に幕府は移転しています。
   辻子とは、大路を結ぶ小道の意味で、宇都宮辻子は西の若宮大路とその東側の小町大路を結ぶ小路であり、石碑の隣にある宇都宮稲荷は、かつて御所内にあったと伝えられており、北条泰時の屋敷もこの御所の北側に隣接してかまえられていたと思われます。
   宇都宮の名称は、治承4年(西暦1180年)源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時、評定衆に列する重臣のご家人であった宇都宮朝綱がこの地に屋敷を構えたことにちなんでいます。
   宇都宮の姓は、藤原通兼(藤原道長の兄)の直系で、末孫宗綱が宇都宮の姓を名乗ったことに始まり、宇都宮朝綱の孫頼綱は、北條時政の女婿でしたが時政の娘政子(頼朝の正室)と弟義時と時政の確執により鎌倉を追われることとなったと伝えられています。
   因みに、宇都宮一族の先祖は藤原鎌足であり、下野国(現在の栃木県)の豪族という名だたる宗教家で、また「鎌倉歌壇」とは違う京風の歌壇である「宇都宮歌壇」を有して、多士済々の人物を輩出していると云われています。>>>More

 
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                                              <志一稲荷>

   鎌倉駅東口から小町通りを抜けると、右手には鶴岡八幡宮の鎮守の森が現れます。さらに道を先へ進み、県立近代美術館本館の筋向かいの細い緩やかな上り坂の道へと入って行くと、観光客には無縁な人気の少ない道が見えます。その先にある急な石段があり、石段を上って行くと突き当たりに『太平記』にも登場する志一上人が建てた志一稲荷がひっそりと鎮座しています。
   志一上人は、訴訟のため筑紫の国から鎌倉に来ましたが、証拠の文を筑紫に忘れてしまい、上人は、可愛がっていた狐に鎌倉まで証拠の文を届けてくれるよう頼んだそうです。狐が一夜で鎌倉まで届けてくれたため、訴訟に勝つことができましたが、その無理が祟ったのか、上人が訴訟に勝ったことを見届けて狐は死んだそうです。そこで上人は、狐の霊を倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)として祀ったのが、この鶯ガ谷にある社で、志一稲荷の始まりだそうです。
   
その後、畠山重忠をはじめ、関東一円の人々が深く帰依したといわれています。しかし、岸和田にある犬鳴山七宝瀧寺の縁起によると、斉名天皇7年(西暦661年)役行者が当山奥の滝岩に出現した不動尊を祀る一堂を創建し、正平年中(西暦1346〜70年)土丸城主橋本正高が粉河寺の志一上人を招いて不動堂の修造を始め、諸坊を建立し再興したといわれ、七宝瀧寺では志一上人を中興の祖としているそうです。また、『太平記』にも、志一上人が記されている時期は、建武の中興の崩壊した後で、楠正成や新田義貞が戦死し、正成の子、正行も戦死した、第二十六巻の「妙吉侍者事付秦始皇帝事」の段に出てきています。源平の合戦で活躍した畠山重忠が帰依したとの説は、時代的に、ちょっと、無理があるのではないでしょうか。>>>More

 
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                                                      白旗神社

   
白旗神社は白幡神社とも表記し、主として源頼朝を祭神としますが、源義家や源義経など源氏関係者、また、源氏の氏神である八幡大神(誉田別命・神功皇后)を主祭神とすることが多いようです。神奈川・千葉・茨城・山梨・静岡県など関東地方を中心に、富山・石川・秋田・福島・岩手県など東北から北陸地方にかけて、約70社鎮座しています。
   鎌倉市西御門の源頼朝墓所付近に鎮座する白旗神社は、明治維新の神仏分離によって同5年に法華堂より白旗神社に改められたものですが、鶴岡八幡宮境内に鎮座する末社の白旗神社は、弘安4年(西暦1281年)の『鶴岡八幡遷宮記』(『神道大系神社編20・鶴岡』所収)に再建された記事が見られます。
  由来として語られているところによると、建久9年(西暦1199年)12月源頼朝は、御家人稲毛重成の亡妻供養のために、相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰り稲村ガ崎で落馬し、それが原因で、翌年の1月に53歳で亡なり、大倉法華堂(現在の白幡神社)に葬られたそうです。現在の墓は白旗神社のすぐ横の階段を登った所にあり、江戸時代に薩摩藩主島津重豪によって建てられた高さ186mの五層の石塔です。現在の社殿は明治維新100年を記念して、昭和45年に源頼朝公報恩会の篤志によって造営されたものです。
   建久6年(西暦1196年)から頼朝が亡くなった正治元年(西暦1199年)までの3年間、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」から頼朝の死亡に関する記録が抜けており、頼朝の死は謎に包まれていると言われています。>>>More

 
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                                                      <鶴岡八幡宮>

   鎌倉の神社と言えば、勿論、鶴岡八幡宮でしょう。ご存知のとおり、正月3ヶ日の鶴岡八幡宮の初詣は人々々・・・・・々です。本殿に辿り着くまで2回の警察官の綱で足止され、本殿前の急な石段を踏み外さないように登り、やっと、本殿の賽銭箱の前に立ったら立ったで、お賽銭が頭に降って来る危険性もあります。拝む時間もなく横に押しやられ、破魔矢やお守り札を頂くにも押し合い圧し合いで、脇の石段から外に押し出されます。
   しかし、これを経験しないと一年は始らない人も多いのではないでしょうか。
   皆様ご存知の通り、鶴岡八幡宮は源氏の守り神であり鎌倉のシンボルです。由比ガ浜の花崗岩造りの「一の鳥居」から始り、「狛犬」に守られた「二の鳥居」、土塁を築いた「段葛」を抜けると、源平池に架かる「赤橋(俗称太鼓橋)」の前の「三の鳥居」に着きます。通常ここからが八幡さまで、石の敷かれた参道を進み、流鏑馬の馬場を過ぎると左手に御手洗、右手に社務所、目の前に静御前が義経を偲んで舞った「舞殿(下拝殿)」があります。舞殿の先には正面の石段があり、麓に公暁の隠れていた大銀杏が天に何本もの手を広げ立っています。葉の落ちた冬枯れの暗闇に立つ大銀杏は、鎌倉幕府の陰謀渦巻く創世期に散った若き将軍源実朝の霊が宿るかのように、何処か寂しく、何処かおどろおどろしく感じます。>>>More
 
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                                              <蛭子神社>
   蛭子神社は小町の鎮守様で、その昔、現在の夷堂橋付近にあった夷三郎神社が、正長永享年間(西暦1429〜41年)の本覚寺創建の際に、境内に夷堂として移され、その夷堂が明治の神仏分離の時に現在の地に移り、同地に祀られていた七面大明神と宝戒寺の山王大権現とともに合祀され蛭子神社となったと云われています。なお、現在の本覚寺夷堂は、昭和56年(西暦1981年)に再建されたものです。
   本殿は鶴岡八幡宮今宮の社殿を譲り受けて建てられましたが、関東大震災で大破し、その後再建され、社殿の内部は当時の今宮の社殿そのままを残しています。
   祭神は大己貴命で、「大国主命」ともいい、「大国」はダイコクとも読めることから、大黒天(大黒様)と習合して民間信仰に浸透しています。
   大己貴命は国造りの神様として知られ、日本の国土の開拓を進めながら、農耕漁業で人々の生活の基礎を固め、医薬の道で人々の病苦を救ったりするなど、広く慕われている神様です。また、昔から縁結び・家内円満・商売繁昌の神様としても親しまれています。
   夷堂橋は鎌倉十橋のひとつで、昔より、大町と小町の境にある滑川に架かる橋として、しばしば、その名が新編鎌倉志や新編相模国風土記稿等の地誌に見られ、「昔鎌倉時代の繁栄した頃は、大町の付近は商店街であった、商業地と住宅地とは夷堂橋を境として分けられ、橋の以北を小町、以南を大町と称した。」とあります。>>>More
 
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                                             <八雲神社(大町)>
   八雲神社(大町)は古くは祇園天王社と称していましたが、明治維新に八雲神社と改称され、今日に至っています。
永保年間(西暦1081〜1084年)に、源義家の弟で弓馬の名手として名の高い新羅三郎義光が、奥州の安倍貞任を征伐するために下向の途中、鎌倉に寄り、疫病が流行しているのをみて、京都の祇園社を勧請した鎌倉最古の「厄除開運」の社といわれ、地元では「八雲さん」「お天王さん」と呼ばれ親しまれています。
   祭神は須佐之男命、稲田姫命、八王子命で、応永年間(西暦1394〜1427年)に佐竹屋敷にあった佐竹一族の霊祠を合祀し、佐竹天王と称したとも伝えられています。
   境内には諏訪神社稲荷神社なども鎮座し、新羅三郎の手玉石などがあり、裏山は東勝寺跡に通じる祇園山のハイキングコースになっています。
   八雲神社には、古くから伝わるお正月の伝統行事、湯花神楽があります。神楽の途中に神主が大きな釜で沸かした湯を笹の葉で参拝客に振りまいて、参拝客の健康を祈り、また、湯をかき回した時に湯柱の立つ様子で、秋の豊作を占います。最後には、神主が天狗の面をつけて神楽を舞い、みかんや飴玉が撒かれます。天狗は投げるふりをして投げなかったりして、少々意地悪をする楽しい神楽のようです。>>>More
 
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                                                     <勝長寿院跡>

   源頼朝
は鎌倉に鎌倉八幡宮寺、永福寺とこの勝長寿院という大きな寺社を3つ建立しました。勝長寿院は中でも極めて壮大であり、今でも大御堂の地名が残っています。
   源頼朝の父・源義朝は平治の乱で破れ、鎌倉への帰路、知多半島内海で殺害されました。文治元年(西暦1185年)父・左馬頭義朝の菩提を弔うため建立にしたのが勝長寿院で、1184年(寿永3年)11月につくり始め、翌年に完成しました。同じく、忠臣の鎌田正清の首も埋葬したと言います。
   
勝長寿院には本尊金色阿弥陀仏像をはじめ、運慶作の五大尊像などが安置され阿弥陀堂、五仏堂、法華堂、三重の宝塔などの荘厳な伽藍が建ち並んでいたそうですが、康元元年(西暦1256年)の火事で消失しましたが、正嘉2年(西暦1258年)北条時頼によって再建され、鎌倉幕府滅亡後も足利氏によって保護されてきましたが、再び焼失してしまい、その後廃寺となったようです。近くには第三代執権北条泰時が父義時の菩提を弔うために建てた御堂に由来する釈迦堂ケ谷切通しがありますが、寺の場所は分っていません。
   義朝は平治の乱の敗戦後、東国に下る途中、知多半島の内海で長田忠致の叛逆により殺されました。頼朝は義朝追悼の廟を建てることを後白河法皇に願い出たところ、法皇は義朝の首を探し出し、鎌田政清の首とともに鎌倉に送ったといいます。頼朝は父の首を 稲瀬川まで迎え出て受け取り、南御堂に葬ったそうです。源頼朝の墓も法華堂に遷される前にはここにあったと思われます。後に、実朝も埋葬され、堂宇も増え、源氏の菩提寺ともなり、鶴岡八幡宮、永福寺と並ぶ大寺になったようです。>>>More

 
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                                              <東勝寺跡

   東勝寺は、鎌倉幕府第三代執権北条泰時が、母の追善と北条宗家の菩提寺として、栄西の弟子退耕行勇を請じ嘉禎3年(西暦1237年)に建てられたとされ、山号を青竜山と号し臨済宗と密教の兼修寺院で関東十刹の一つでした。
   元亨3年(西暦1323年)の北条貞時十三年忌法要には、東勝寺の僧衆53人が参加しており、僧衆の数は諸寺の中で十番目に多く、かなりの大寺であったことを知ることが出来ます。また、その10年後、新田義貞が率いる軍勢によって、追い詰められた北条高時が諸大将と共に寺院に火をかけ自刃して果てた鎌倉幕府の終焉の地でもあります。
   東勝寺は、その後、間もなく復興されましたが、廃絶した時期は明らかではありません。『鎌倉廃寺辞典』によると、文明18年(西暦1486年)に一旦廃絶し、永正の頃(西暦1504〜21年)に再興され、元亀4年(西暦1573年)頃に廃寺になったと考えられています。
   東勝寺は北条得宗家の氏寺跡、鎌倉幕府滅亡の地として政治史的に極めて重要な遺跡で、昭和51年、平成8、9年に行った発掘調査により、寺院跡の一部が確認されました。裏山には自害した一族の墓「腹切りやぐら」があります。>>>More
 
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                                                <教恩寺>

   中座山教恩寺は、北条氏康が開基、知阿上人を開山とする時宗の寺です。以前この地には光明寺の末寺、善昌寺がありましたが、廃寺となったことで、延宝6年(西暦1678)年)、貴誉上人によって材木座の光明寺境内にあった教恩寺が移築されたといいます。
   本尊の阿弥陀如来像は運慶作で、元暦元年(西暦1184年)、一ノ谷の合戦に敗れた平重衡が囚われの身となって鎌倉に連れてこられたとき、源頼朝が、平家一族の冥福を祈るために籠堂を建立し、阿弥陀三尊を奉安したものと伝えられています。また、三門の表欄間には「十六羅漢」が彫られていることでも有名です。
   この一帯は旧名米町といい、菖蒲や紫陽花の咲く鎌倉三十三観音霊場の第十二番目としても知られ、夏になると、本堂で蝋燭の灯りのもと怪談落語会が開かれ、多くの人に親しまれています。
   当山の開基である北条氏康は、同時代の武田信玄や上杉謙信に比べると、政治的な武将とのイメージがありますが、戦乱の嵐吹き荒れる関八州において、武田信玄、上杉謙信という両雄と対等にわたりあい、戦場にあっては“氏康の向疵”と称される猛将として、また、帷幕にあっては知略謀略を尽くして武田、上杉を苦しめた智将として、波乱に満ちた生涯を送っています。>>>More
 
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                                                <常栄寺>

   山号は恵雲山、日蓮宗の寺で、開山は紀州徳川家の家臣・水野淡路守重良の女慶雲院日祐、慶長11年(西暦1606年)比企谷・池上両山十四世自証院日詔上人が妙常日栄の名前にちなんで寺を建てたと伝えられています。
   別名ぼたもち寺といわれ、「立正安国」を唱えた日蓮上人が囚われの身となり、龍ノ口の刑場に送られる道の途中、妙常日栄が仏の加護を願いゴマのぼた餅を差し出すと、願いが通じたのか日蓮は難を逃れ、助かることができたといわれています。この故事にあやかり、日詔上人が妙常日栄の名にちなんでこの地に寺を建てたそうです。
   妙常日栄は、初の皇族将軍として11歳の時、鎌倉に下ってきた宗尊親王(鎌倉幕府第6代将軍、歌人として有名)の近臣、印東次郎左衛門尉祐信の妻で、源頼朝が由比ガ浜を眺めるための桟敷(展望台)を設けた寺の裏山に住んでいたため、桟敷尼とも呼ばれていました。
   ぼた餅の故事とは、文永8年(西暦1271年)9月、日蓮上人が龍の口法難にあって刑場に引かれて行く時、ここに住んでいた桟敷尼が、日蓮上人にぼた餅を差し上げようと思い作り始めましたが、間に合わず、ありあわせの赤飯にごま塩をつけてにぎり飯を作り、なべぶたに載せて、それを捧げたことに由来します。>>>More
 
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                                                <大巧寺>

   元応2年(西暦1320年)日澄上人の開山で創建され、おんめ様≠フ愛称で親しまれ、正式には長慶山正覚院大巧寺といいます。
   元は頼朝の祈願所で大行寺といって十二所の梶原屋敷にありましたが、頼朝が平家との戦いのとき、この寺で練った作戦で大勝したため大巧寺と改め、現在、地に移されました。
   正面の朱色の門には「頼朝評定所」と記された碑が建てられており、また、5世住職の日棟上人が難産で亡くなった女性の霊を鎮め産女霊神として祀ったため、以来、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになり、安産祈願に訪れる参拝客が多いといわれています。最初は真言宗でしたが、日蓮が妙本寺にいた文永11年(西暦1274年)、住持が日蓮に帰依したことから、日蓮宗に改宗し、妙本寺の末寺になりました。
   鎌倉入りした直後の源頼朝がここで軍議を開き大勝した戦いは、時期的に見て、平安時代末期、治承4年10月20日(西暦1180年)の平維盛を大将とする平家の大軍と、頼朝軍が富士川で睨み合った富士川の合戦と考えられ、維盛軍は駿河国の富士川に布陣、   一方の頼朝軍は黄瀬川に布陣していました。遠く奥州平泉から弟の源義経が参陣し、兄源頼朝と感激の対面をしたことも、この時の黄瀬川の陣ででした。>>>More

 
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                                                <寶戒寺>

   当山は天台宗の寺院で金龍山釈満院円頓宝戒寺と号し、開基は後醍醐天皇、開山は天台座主五代国師円観恵鎮慈威和上で建武2年(西暦1335年)に創建されました。
   周辺は元弘3年(西暦1333年)に新田義貞に攻められて滅亡するまで北条宗家(得宗家)の屋敷があったところで、滅亡した北条氏の霊を弔うために後醍醐天皇が足利尊氏に命じてこの寺を建立させたと伝えられています。
   開山の慈威和上は、当山を円頓大戒(金剛宝戒ともいい、梵綱菩薩戒経所説の十重四十八軽戒を戒相とする大乗戒)と天台密教(台密)の大法関東弘通の道場として戒壇院を置き、現在に至るまで、加賀白山の薬師寺、伊豫の等妙寺、筑紫の鎮弘寺と共に遠国四箇の戒場として知られています。天文7年(西暦1538年)七堂伽藍ことごとく焼失してしまい、江戸時代に入って、天海大僧正は、宝戒寺は関東における天台律宗の本寺である故寺の維持相続の保護を徳川家康に懇願しています。
   開基の後醍醐天皇は、平安時代の醍醐天皇の治世「延喜の治」を理想的な時代と考え、鎌倉幕府を倒して建武の親政を行った天皇として知られています。
   後醍醐天皇は、新田義貞らの鎌倉攻めの時、十四代執権北条高時をはじめとする一族郎党が近くの東勝寺に立てこもり、寺に火を放って自刃して最期を遂げたことで、自刃して果てた800人ともいわれる北条高時一族郎党が怨霊となると恐れ、当山を足利尊氏に命じて建立したとも伝えられています。>>>More

 
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                                                <本覚寺>

   山号を妙厳山といい、永亨8年(西暦1436年)に開基を足利持氏、開山を日出上人日出上人として創建された日蓮宗の寺院で、ご本尊は釈迦三尊、寺内には岡崎五郎正宗のものと伝えられる墓があります。
   この場所は、もともと鎌倉幕府を開いた源頼朝が、幕府の裏鬼門に当るとして、恵比寿を守護神として祀ったところとされており、鎌倉七福神の一つである夷堂があります。
   文永11年(西暦1274年)に佐渡流罪を解かれ鎌倉に戻った日蓮上人が、この夷堂に滞在して布教を再開し、その後、甲斐国の身延山に入って久遠寺を建立し本核的に日蓮宗の布教を行いました。
   室町時代に入り、関東管領の足利持氏が、夷堂があった場所に寺を建て、日出上人に寄進し、身延山から分骨した日蓮上人の分骨が納められたことで、別名「東身延」ともいわれています。
岡崎五郎正宗は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に相模国鎌倉で活動した刀工で、「相州伝」と称される作風を完成し、多くの弟子を育成しました。
   正宗の弟子とされるものに「正宗十哲」(備前国兼光、備前国長義、左安吉、来国次、長谷部国重、郷義弘、越中国則重、志津三郎兼氏、美濃国金重、石州直綱)と呼ばれる刀工が山城、美濃、備前など各地におり、真偽は別として、正宗の作風が後々まで各地の刀工に影響を与えたことを示しています。>>>More
 
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                                                         <妙本寺>

   
妙本寺は、日蓮宗の寺院で、日朗を開山として文応元年(西暦1260年)に創建されました。もとは比企能員の屋敷で、建仁3年(西暦1203年)、比企の乱で比企一族が、北条氏を中心とする大軍に攻められ、滅ぼされた地です。その後、比企能員の末子の比企大学三郎能本が日蓮上人のためと比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まりで、境内には日蓮聖人鎌倉開教聖地の碑があります。本尊は十界大曼荼羅御本尊です。
   総門をくぐり、境内坂道の参道を登った二天門奥の大きな瓦葺きの建物は祖師堂で、堂内の中央にあるお厨子は、江戸にあった鼠山感応寺が、江戸後期に老中水野忠邦による「天保の改革」で取り潰された際、感応寺にあった厨子を妙本寺に移したのだそうです。この厨子に日蓮聖人像が祀られています。
   また、方丈への入り口を右に見て奥へ進むと、鎌倉幕府二代将軍「頼家」の妻比企能員の娘(一幡の母親)「若狭(讃岐)の局」を祀る蛇苦止堂があります。
   北条政子の命で屋敷に火を掛けられ、恨みを残して死んだ讃岐の局は、約50年後に北条政村の娘に乗り移ったといわれています。加持祈祷をしてもよくならない娘は、日蓮聖人が法華経を唱えると、自分は讃岐の局だと名乗ったそうです。畜生界に落ちて蛇のようにのたうって苦しむ局を哀れに思い、昔の屋敷跡に蛇苦止堂を立てて供養したそうです。>>>More
 
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                                                <妙隆寺>

   鎌倉の小町・大町・材木座方面には日蓮宗の寺が多く、妙隆寺も小町大路の日蓮辻説法跡の近くにある日蓮宗の寺です。
   正式名称は叡昌山妙隆寺といい、至徳2年(西暦1385年)源頼朝の御家人、千葉常胤の子孫である胤貞が千葉の本領へ移るに及んで、その屋敷跡に、日英を開山として建立されました。本堂には、日蓮上人像、日親上人像、日英上人像、釈迦如来像、千葉胤貞像などが祀られています。
   開山第二祖の日親は、凄絶な布教ぶりで知られる僧で、応永34年(西暦1427年)の冬、「大法弘通に耐え得るや否や自らの忍力を試さん」と堂前の池で寒百日間水行され、日課として自我偈巻、お題目千遍の修行した後、京へ上り、立正冶国論の一書を献じて、6代将軍・足利義教の政道を諌めようとしました。
   
しかし、逆に義教の逆鱗に触れて捕らえられ、水、火、湯鑵(熱湯ぜめ)など数々の拷問や舌端を切られ、焼き鍋をかぶせられる極刑を受けましたが、頑として自説を曲げなかったといいます。そのため、後に「鍋かむり日親様」の名で呼ばれるようになりました。
   なお、妙隆寺には鎌倉江ノ島七福神の「寿老人」が祀られおり、毎年訪れる人が増えているそうで、寿老人にちなんだ厄除けのお守りを受けることができます。>>>More
 
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