<北鎌倉駅周辺神社仏閣一覧>
厳島神社・青梅聖天社・烏森稲荷社・小八神社
大六天社・八雲神社・山中稲荷社
円応寺・円覚寺・建長寺・光照寺・禅興寺跡
長寿寺・浄智寺・成福寺・東慶寺・明月院
<非公開の仏像や撮影禁止場所の写真は鎌倉シニア通信のお寺さんより等引用しています>
このホームページに掲載されている資料を使われる方はご連絡下さい。
<問い合わせ先>
<厳島神社>
JR横須賀線が鎌倉街道と交わる小袋谷の踏み切りから一つ大船駅よりの踏み切りの側に、寅さん映画に無くてはならない御前様、笠智衆の眠る成福寺があります。その成福寺の鬼門除け神社が今回の厳島神社です。祭神は市杵島姫命、橘姫命、応神天皇です。
「相模風土記」によると、厳島神社は村持とあり、小袋谷の鎮守であったようです。成福寺裏の亀甲山の頂上に建ち、成福寺の門前から北鎌倉方向へ少し歩いて、左に曲がると突き当たりに石段があり、登ったところに厳島神社が建っています。
参道を登る途中の左側に災い防止を目的に建立された3基の庚申塔があり、2基は寛文年間(西暦1661〜73年)の後半に建てられたそうです。中でも阿弥陀三尊の種子を付けた庚申塔は、その種のものとして最も古いものと云われています。
なお、残りの1基は、安政7年(西暦1860年)の銘があり、もとは、水堰橋近くの道端に立っていたものだそうです。
明治6年(西暦1873年)村社に列し、同22年(西暦1889年)横須賀線の開通に伴い小袋谷公会堂の所に移され、近くにあった吾妻社と並べて奉齋されていたそうです。また、成福寺境内の裏山には古くより八幡社があり、鎮守神として成福寺が祀っていましたが、後に、三社が毎年順に祭祀を行うようになり、更に関東大震災で倒壊すると、昭和2年(西暦1927年)に三社が合祀され、厳島神社として再建されたと云われています。
祭礼は、2月上旬の午の日に行われる初午祭と、7月の第4日曜日の例祭で、夏祭りの宵には神社内で小袋谷囃子演奏され、併せて獅子舞が奉納されています。これらの伝統芸能は、地元の人達の努力で、現在まで保存されています。>>>More
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<青梅聖天社>
庚申塔は、全部で11基あり、社殿の左脇にある物置小屋のような建物の左側の細い道をたどると、右手の崖に沿って並んでいます。八幡宮の裏にある駐車場から、建長寺の方へ通ずる小袋坂(巨福呂坂)を左側に岐れた小坂を地元では通称、聖天坂と呼んでいます。ここを登ってゆくと、さらに苔むした石段があり、青梅聖天社が祀られています。
庚申塔は、全部で11基あり、社殿の左脇にある物置小屋のような建物の左側の細い道をたどると、右手の崖に沿って並んでいます。この青梅聖天社には、その名の由来を物語る面白い伝えが残されています。病に罹った鎌倉将軍が時季外れの梅を求めたところ、このお社の前に実った青梅を得て、それを食するとたちまち回復したということです。
庚申塔は、全部で11基あり、社殿の左脇にある物置小屋のような建物の左側の細い道をたどると、右手の崖に沿って並んでいます。このお社は江戸時代までは鶴岡八幡宮供僧坊の内の最勝院が管理をしていたことが『新編相模国風土記稿』に書かれています。例祭は7月25日に行われ、この時には聖天坂にかわいらしいぼんぼりが飾られ、大根を炊き込んだ大根めし、あるいは穀類をこね合わせて揚げた歓喜団という菓子をお供えすると聞いています。
庚申塔は、全部で11基あり、社殿の左脇にある物置小屋のような建物の左側の細い道をたどると、右手の崖に沿って並んでいます。その少し先にはここがかつては鎌倉から遠方への道であったことを物語る庚申塔や道祖神があり、現在ではこれが唯一残っている古道と云われています。>>>More
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<烏森稲荷社>
北鎌倉から建長寺方面へ向かい、JRの踏切から数十メートルほど行くと右に入る細い道があり、その突き当りに、見過ごしてしまうような、倉稲魂命(稲荷神)・天鈿女命・瓊々杵尊を祀る小さな稲荷社、烏森稲荷社があります。
由緒謂れは分りませんが、今でも、近所の方々が守っておられるようで、社の幕なども新しく、傍らにある庚申塔にもきれいな花が供えられ、地元に根付いた稲荷社のようです。
江戸時代、江戸庶民の間には、大山詣や江ノ島詣が流行っており、その帰りに、鎌倉へ足を伸ばす人々も多くいたと伝えています。逆に、鎌倉の庶民の中にも、安藤広重の江戸百景を片手に、当時の世界的大都会であった江戸へ、物見遊山に出かける人々も多かったのではないかと思われます。
そこで想像ではありますが、江戸の玄関口品川に程近い、新橋烏森稲荷神社(明治以降は烏森神社:新橋駅SL広場側)にお参りする鎌倉庶民もあったと思われます。
それ故「その昔、鎌倉の稲荷講の人達が、江戸新橋の烏森稲荷へ参拝に行った時に、狐が白い馬になってついてきたのでそれを祀ったのが始まり」と言うことで、鎌倉のこの地に烏森稲荷社を建てたとも考えられます。江戸目黒村(現・東京都目黒区上目黒)にある烏森稲荷神社にはそのような言い伝えが残っているそうです。
また、稲荷社のある裏山は、円覚寺から建長寺へと連なる山と対座し、今でも、烏が群がり棲んでいることから、当時は今以上に烏が群っていたため、烏森のお宮と言われるようになり、烏森という名前が付けられたのではないかと勝手に推定もしています。>>>More
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<小八神社>
北鎌倉駅から歩いて10分弱のところに、台の八幡(やはた)神社があります。地図には小八神社と書いてあり、北鎌倉駅から大船に向って、線路の右側を、権兵衛踏切を過ぎて行くと、右側に参道の階段が見えてきます。階段を少し登ると石造りの鳥居があり、その先の暗く鬱蒼とした森の中に本殿が鎮座しています。
小八神社神社は、享保20年(西暦1735年)に、この地の領主の別所氏によって石清水八幡宮を勧請したのが始まりで、現在は、台の市場地区の鎮守とのことです。祭神は応神天皇で家内安全の御利益があるそうです。
階段下に念仏供養塔、階段途中に三基の庚申塔があります。元禄3年(西暦1690年)と彫られた青面金剛はショケラを下げています。ショケラとは、商羯羅天で、ヒンズー教のシヴァ神(大自在天)の別名であり、シヴァ神は仏教の宿敵であるため、髪をかまれて吊されたりするシヴァ神の姿が仏像などによく見られます。また、文政13年と彫られている文字庚申塔には「梅花老人拝書 印」とあり、この書を書いた作者だと思われます。
小八神社は小さな神社ですが、神明社や春日社、稲荷社も祭られています。小八神社が創建された年は、享保17年(西暦1732年)から始まった江戸四台飢饉の一つである享保の大飢饉の影響がまだ残っていた年で、青木昆陽が将軍吉宗の命により甘藷(サツマイモ)を小石川菜園などで試植、収穫に成功した年です。
享保の大飢饉の被害は、西日本が中心に、餓死者は1万2千人にも達し、250万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われています。そのため、領主の別所氏が、この社を建て、神に救いを求めたのではないでしょうか。>>>More
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<大六天社>
大六天社は、北鎌倉駅から建長寺、巨福呂坂へ向かい、右手の亀谷切通し入口を過ぎ、巨福呂坂の洞門手前、同じ右手の斜面に大六天社に登る石段があります。階段を登る入口には扉があり、施錠されていて普段はお参りできません。
階段を登ると社があり、中には大六天像を中心に広目天や多聞天などの仏像が安置されているそうで、いずれも江戸時代に作られたものと推定されています。
一般に大六天とは古代インド神話上の魔王で、日本では仏教守護神とされています。寺を守る神様で、建長寺には、古来から、東西南北それぞれに守り神が鎮座していましたが、現在残っているのは、南を守るこの大六天だけだそうです。創立は、社殿に納められている建長寺第二一八世真浄元苗筆の天保2年(西暦1831年)の棟札によって、宝永4年(西暦1707年)に建立した社殿の破損が著しいため、村人が願い出て再建したとあることから、江戸時代の初期であったことは確かなようです。
大六天魔王説話は、平安末期頃作られたという『中臣祓訓解』から始まるとされ、仏教と神道の間で様々に語られ、悪魔とも建国神話以前の神ともされ、江戸期には災難を防ぐ福の神とも云われています。しかし、いろいろな解釈や注釈がつけられて、多様な変容しており、戦国時代には、織田信長が「おれは第六天魔王だ」といったというルイス・フロイスの記述もあり、どれが本当の姿か分らないのが実情のようです。
大六天社に登る石段の脇、扉のうしろ、すぐ右手には庚申塔があり、また、安倍清明の碑もあり、建長寺の守護のため、陰陽師の力をも借りて万全を期していたようです。>>>More
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<八雲神社(山之内)>
八雲神社は山ノ内の鎮守で、創建は鎌倉時代といわれています。「相模風土記」などによると、元仁元年(西暦1224年)鎌倉に疫病が流行したため、京都の八坂の神霊を勧請し、村の安寧を祈ったのが始まりという説と、室町時代に関東管領の上杉憲房が武運長久を祈り勧請したという説があるそうです。
古くは牛頭天王社と称し、境内には寛文5年(1665年)の銘のある鎌倉最大最古の石造庚申塔(鎌倉市指定文化財)があります。また、境内に祀られている「晴明の石」は平安時代の陰陽師安部晴明が残したといういわれ、除災の石として信仰を集め、石を汚したりすると大難の祟りがあるといって祀られたと伝えています。元は付近の道路に埋まっていましたが、工事で掘り起こされて八雲神社に移されたそうです。
庚申塔は、全部で11基あり、社殿の左脇にある物置小屋のような建物の左側の細い道をたどると、右手の崖に沿って並んでいます。左から4番目の舟型の庚申塔が、鎌倉最大最古の石造庚申塔で、塔身も136センチメートルと最大だそうです。
庚申信仰は、十干十二支による、六十日に一度めぐってくる庚申の日に、夜を寝ずに身を謹んで過ごす庶民の信仰で、続日本後紀に、承和元年(西暦834年)宮廷で「お庚申」を行ったと記録されているそうですが、当時は詩歌管弦を伴う遊戯が目的で、宮廷を中心に行われ、庶民のものではなかったようです。>>>More
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<山中稲荷社>
北鎌倉駅を出て目の前信号を渡り、交番の左側を抜ける小路を歩いて行くと、風情のある竹垣の続く道に突き当たります。この道が住宅地の中にある小さな稲荷社、山中稲荷社の鎌倉街道から続く参道です。稲荷社と言えば赤い鳥居ですが、この稲荷社の鳥居は赤く塗られておらず、珍しいとされています。鳥居の前に「山中稲荷」と彫られた石柱はありますが、創建時期や由来はまったく分らないようです。
しかし、踊り念仏を始めた時宗(じしゅう)の開祖、一遍上人に関する「一遍聖絵」に北鎌倉周辺が描かれており、それが、山中稲荷周辺ではないかと云われてます。
そのことから、一遍上人が鎌倉入りを図り、法難に会った弘安5年(西暦1282年)には、既に、山中稲荷はあったと思われ、創建時期はそれ以前と推定されます。
稲荷社の左側の小路を更に進み、台峯の麓の水源地帯に向って進むと、北鎌倉に残された貴重な棚田が眼に入ってきます。
この辺りは、古代、「サカド(尺度)」郷と呼ばれたところで、鎌倉の北の出入り口、「サカ」は「境・界」、「ド」は「戸、門、所、処、土地」を意味し、湧水も豊富で、荘園として、北鎌倉駅周辺を中心に古くから開けていたようです。現在は、山ノ内に統合され、「功名が辻」の主役の「山内」氏はここの出自とされています。
山間部は「金宝山」(浄智寺の山号)、「東瓜ケ谷」、「西瓜ケ谷」、「台峯」と呼ばれ、棚田の脇から伸び、源氏山に続く杣道の途中、瓜ヶ谷東部の谷奥に、5穴からなるやぐら群があります。このやぐら群は、無論、観光ガイドには載っていませんが、学術的にも非常に貴重なもので、鎌倉史に興味がある方々なら、無理しても訪れるべきやぐら群です。>>>More
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<円応寺>
円応寺は臨済宗建長寺派のお寺で、寺伝によると、開山は智覚禅師、創建は建長2年(西暦1250年)と言われています。しかし、『鎌倉市史・寺社編』には、智覚大師は延慶二年(西暦1309年)正月寂とあり、像立年代の建長三年(西暦1251年)から、かなりの隔たりがあるので、開山説には無理があると論じています。
円応寺は、元々は、滑川の河口に架かる橋の付近に建っていた荒井閻魔堂と呼ばれるお堂で、建長寺創建以前に建立されていた真言系の古刹でした。『建長寺参暇日記』によると、元禄16年(西暦1703年)12月22日の大地震と津波により、「本堂寺橋迄大破、勿論閻王十王之尊像共不残破損」とあり、また、別の資料によれば、この地震と津波により、潰滅的打撃を受けた円応寺は、その復興のために江戸で出開帳をしています。この時、口の悪い江戸っ子たちは、見る翳もなく激しく傷んだ閻魔大王以下十王諸像の姿を見て、川柳にして囃子立てたそうです。
円応寺が巨福呂坂の現在地に移ったのは、安藤東野の『遊相季紀事』によると、宝永元年(西暦1704年)頃で、この時期に閻魔大王以下の諸像の修理が、終わっていたかどうかは不明です。現在の建物は、こじんまりとした方三間のお堂ですが、内陣の奥中央に安置されている閻魔大王と、左右の十王像や奪衣婆(だつえば)・地蔵像等が鎮座する仏像群は、仏教美術上貴重な存在です。>>>More

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<円覚寺>
円覚寺は横須賀線の線路で外門(現在はありません)と総門、境内と分断されています。外門と踏切りの間に白鷺池があります。現在は円覚寺の一部と理解している観光客が殆どいないためか、罰当たりな観光客が捨てたお菓子の箱などのゴミが浮かんでいることもあります。白鷺池の由来は、無学祖元がまだ宋の温州能仁寺に居た頃、鶴岡八幡宮の大神が白鷺と化し祖元のもとを訪れて来朝を乞い、道案内をしてこの池に舞い降りたことからきていると言われています。
円覚寺は元寇の役の戦勝もしくはその祈願で工事が始まり、弘安の役の翌年(弘安5年:西暦1282年)に開堂供養が行われています。完成はその1年前です。開基は北条時宗で、開山は無学祖元です。
舎利殿と梵鐘が国宝で、重要文化財は絵画7点、彫刻3点、工芸品等13点、その他県指定重要文化財が多数あり、毎年11月初旬の風入れにおいて一部が公開されています。
無学祖元と元寇とは、祖元がまだ宋の温州能仁寺に居た頃に始まっています。徳祐2年(西暦1276年)に蒙古軍が南下して宋を攻め、温州能仁寺に侵入しました。寺衆は皆逃げて隠れましたが、祖元一人堂中に残り、刀を突きつけた蒙古兵に対し、自若として仏の道を説きました。蒙古兵はその教えに感じ入り、危害を加えずに去ったということです。>>>More
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<建長寺>
建長寺は、正式には巨福山建長興国禅寺と言い、臨済宗建長寺派の本山です。開山は蘭渓道隆、開基は北条時頼で、寺域は小袋坂の北側で、勝上嶽に向かって東北に切れ込む谷に広がっています。
最盛期には塔頭が49院ありましたが、火災により焼失し、現存する建物は、江戸時代以降に再建または移建されたものです。
総門、三門、仏殿と一直線に伽藍が並んでおり、その周囲を10の塔頭寺院が取り囲んでいます。
横手には鐘楼があり、建長7年(西暦1255年)物部重光によって作られた梵鐘が掛けられ、 創建当時の数少ない優品として国宝に指定されています。この梵鐘は、円覚寺、常楽寺の鐘とともに鎌倉の三名鐘といわれています。奥には、唐門とその後ろに昭和18年(西暦1943年)、山門と一緒に京都般舟三昧院から移築された籠王殿とも呼ばれる方丈があり、その庭園はツツジやショウブなどの名所として知られています。
建長寺のある谷は、寺が開かれる以前は地獄谷と言って、犯罪人の処刑場があった場所で、伽羅陀山心平寺という寺があり、後に廃寺となり地蔵堂だけが残っていました。
建長元年(西暦1249年)に建立が始まり5年の歳月を要して完成しました。本尊は応行作による丈六の地蔵菩薩像で、安置されている堂内には尺余の千体地蔵尊と心平寺にあった地蔵尊も置かれています。>>>More
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<光照寺>
開山は一向俊聖上人、浄土宗西山派からの分れた時宗の寺で、正式名称は西台山英月院光照寺と号します。JR横須賀線北鎌倉駅より大船側にあるお寺で、観光ルートから外れているため、訪れる観光客は少なく、拝観料なしで見学することができます。
弘安年間(西暦1278〜1286年頃)の創建で、このお寺の場所は、一遍上人が遊行中の弘安5年(西暦1282年)巨福呂坂から鎌倉へ入ろうとしたところ、時の執権北条時宗の一行に出会い、警護の武士に鞭で打たれて追い払われ、やむなく木戸の外で踊り念仏をしながら一夜を明かした、一遍上人法難の霊場といわれています。
一遍上人は、翌日「かたせの館の御堂」に現れ、数日後「かたせの浜の地蔵堂」に移り、4ヶ月ほど滞在して、踊り念仏で民衆に仏教を広めています。
山門(中川藩江戸屋敷の菩提寺東渓院から移築)にはキリスト教の十字の紋(くるす紋)が掲げられています。江戸時代には小袋谷近辺にキリシタン伝道所があった為、お寺の近隣に隠れキリシタンが住んでおり、この近くの庄屋の古文書に「キリシタンの首が切られた」と書いてあったのことです。>>>More
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<禅興寺跡(最明寺跡)>
禅興寺は、正式名称を福厳山禅興仰聖禅寺と言い、康元元年(西暦1256年)第五代執権北条時頼によって、建立された最明寺を前身として、第六代執権北条時宗によって再興されました。最明寺は、北条時頼が30才で出家したときに持仏堂として建立され、自身の法名である最明寺が、寺の名として付けられました。時頼が37才で没すると、その3年後に時頼の子の時宗が、建長寺と円覚寺の両大寺の間にある寺ということで、建長寺開山の蘭渓道隆を開山に、円覚寺開基の時宗自身が開基の形をとって、名も禅興寺と変え建立されたと伝えています。
その後の康暦2年(西暦1380年)、時の関東公方足利氏満が、管領上杉安房守憲方に禅興寺の中興を命じ、伽藍を完備、寺域を広大にし、支院を配置させたと云われています。しかし、明治初年(西暦1868年)に廃寺となり、今では禅興寺の塔頭であった明月院のみを残すだけで、時頼の骨灰をまぜてつくった北条時頼像の塑像など、かつての禅興寺の品々は明月院に多数残されていると云うことです。
禅興寺が最も繁栄していたのは北条氏が盛んな頃であったようです。 『北条貞時十三年忌供養記』によると、貞時、高時の時代の元享3年(西暦1323年)貞時十三年忌の仏事の一環として、建長寺や円覚寺の伽藍整備もおこなわれ、この時に初めて円覚寺にできた法堂落慶に、本寺の円覚寺から350人、建長寺から388人、そして禅興寺から92人の僧侶が参列したと記されています。参加した人数をもって、直ちに寺の規模に結びつけて良いかは疑問もですが、五山に次ぐほどの存在であったと思われ、足利三代将軍義満の時、大寺院を選ぶにおいて、禅興寺は関東十刹の一位とされています。>>>More
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<長寿寺>
宝亀山長寿寺は建長寺の末寺で、開基が鎌倉公方足利基氏、開山は古先印元で、尊氏の菩提を弔い建立したと伝えています。石段を登ると茅葺きの山門、奥には足利尊氏坐像と古先印元坐像をまつる観音堂があり、背後には尊氏の墓と伝えられる五輪塔があります。
しかし、足利尊氏が、建武三年(西暦1336年)に御教書を長寿寺に下付し、長寿寺を諸山に列したとありますので、長寿寺の創建はそれ以前と言う事になり、また、足利尊氏の法名が関東では「長寿寺殿(関西では等持院殿)」と称することから、開基が足利尊氏だと言う説もあります。
一方、長寿寺の開基は足利基氏で、基氏は父の足利尊氏の菩提を弔うため、その邸跡に長寿寺を創建したと言う説もあります。その場合、創建年次は延文三年(西暦1358年)と言うことになります。
開山の古先印元は、永仁元年(西暦1294年)薩摩に生まれ、八歳の時、父に伴われて円覚寺を訪れ、桃渓禅師に師事、桃渓没後の文保二年(西暦1318年)に中国に渡り、天目山の中峰国師に教えを請い、在元九年、嘉歴二年(西暦1327年)帰国しました。その後亡くなるまでの四十余年の間、恵林、等持、真如、萬寿、浄智、建長等のお寺の住職を勤め、更に、奥州の普応、房州の天寧、舟州の願勝、信州の盛興、武州の正法、江州の普門、摂州の宝寿等の創建したと言われています。>>>More
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<浄智寺>
浄智寺は臨済宗円覚寺派の寺として鎌倉執権第十代北条師時を開基、?庵普寧を開山で建立されました。浄智寺の創建は弘安の末(西暦1285年頃)と言うことではっきりしていません。
仏殿の曇華殿には室町時代の作の過去現在・未来を意味する阿弥陀・釈迦・弥勒の木造三体の仏像(県重文)が安置されています。寺宝の重要文化財地蔵菩薩坐像、西来庵修造勧進状、兀庵普寧木、像韋駄天木像は、鎌倉国宝館に寄託しています。
浄智寺は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての鎌倉禅林の黄金時代に創建され、鎌倉5山である建長寺、円覚寺、寿福寺に次ぐ規模の寺でしたが、鎌倉公方の足利家、関東管領の上杉家の内紛やそれに伴う駿河今川家、甲斐武田家、常陸佐竹家、越後上杉家、相模後北条家という戦国大名の雄の鎌倉進出に翻弄されて衰退していきました。
関東管領の権力争いに敗れ、管領を辞職した上杉氏憲(入道名:禅秀)が兵を挙げ公方足利持氏を襲った禅秀の乱(応永23,24年:西暦1416,1617年)の後、鎌倉公方家と関係の深い浄智寺は戦乱で屋敷を失った公方家の宿舎になっていました。この乱では京室町幕府(将軍足利義持)は駿河の今川範政、越後の上杉房方に足利持氏援兵の要請をしています。
その後、浄智寺は「二百年来宝殿荒廃」と「鎌倉志」には記されており、また、「鎌倉五山記」でも仏殿は欠如していると記事があり、200年間仏殿がなかった荒廃した状態が続いていたようです。>>>More
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<成福寺>
数年前(もっと前?)に、松竹大船撮影所が64年の歴史に幕を降ろしました。今回、何でこのような書き出しでスタートしたか訝しげに思う方々が殆どでしょう。
大船は鎌倉市の端にあり、小さな砂押川の橋で横浜市栄区と接しています。JR大船駅のプラットフォームは鎌倉市と横浜市に両足を架けていて、電車の長さが長くなるにつれて横浜市の方向にプラットフォームは伸びて行きますが、駅舎は鎌倉市から動きません。
今回は、大船駅の話をしたい訳ではなく、寅さんシリーズに欠くことのできない人、御前さまゆかりの成福寺と、現在、大船の鎌倉女子大キャンパスになっている松竹大船撮影所を合わせて皆さんに紹介したいと考えました。
成福寺は「男はつらいよ」でその飄々とした演技で、おいチャンや社長以上に存在感のあった御前さまの葬儀が行われた寺として、知る人ぞ知る小さなお寺です。場所は、鎌倉街道が横須賀線を横切る小袋谷の踏み切りから一つ大船寄りにある、小さな自家用車もすれ違いができない狭い踏み切りの真前です。
成福寺は、亀甲山法得院成福寺と号し、浄土真宗京都西六条本願寺の末寺で、貞永元年(西暦1232年)に創建されました。開基は、鎌倉幕府三代執権北条泰時の子泰次で、幼少より仏教を学び、得度して沙門院泰次入道と号し、天台宗の僧として裏山の「亀の窟」で修行していましたが、浄土真宗の開祖親鸞に会い、教えを受け弟子となり成仏の名を受け、貞永元年(西暦1232年)寺を浄土真宗に改宗しました。>>>More
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<東慶寺>
東慶寺は、正式には山号を松岡山、寺号を東慶総持禅寺と言い、臨済宗円覚寺派の寺院です。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条貞時、開山(初代住職)は覚山尼(かくさんに)で、鎌倉街道をへだてて円覚寺と向きあう丘の上にあります。
東慶寺は、現在、男僧の寺ですが、明治36年(西暦1903年)までは代々尼寺であり、尼五山の第二位の寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから、当寺は地名をとって「松ヶ岡御所」と称せられ、格式の高さを誇っていました。
江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川家康の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺しています。天秀尼 (てんしゅうに) の父は豊臣秀頼で、大坂城落城後に入寺します。養母は徳川家康の孫娘の千姫(天樹院)で、寺格は高く、住職の行列では、大名行列でも道を譲ったようです。
当寺は、近世を通じて「縁切寺」「駆け込み寺」として知られており、江戸時代、離婚請求権は夫の側にしか認められていませんでしたが、夫と縁を切りたい女性は、当寺で3年(後2年)の間修行をすれば離婚が認められるという「縁切寺法」という制度がありました。
東慶寺が縁切寺として知られるようになったのは、天秀尼が入寺の際に、家康が彼女に何か望みはないかとの問われ、当時7才の天秀尼が、代々の縁切寺法を存続して欲しいと頼み、家康がこの願いを聞き入れたということによります。>>>More
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<明月院>
鎌倉は春夏秋冬、何処に行っても多くの花が咲いています。最近は、ISO14001(世界環境規格)を取得する会社が増え、工場の緑地化として、桜の木を植える工場が増えています。東海道線の電車の中から柏尾川沿いにある工場の敷地に咲く桜並木は、まだ、若木ですが本数が多く見事です。また、惜しまれて山田洋次監督の「学校4」の撮影を最後に閉鎖され鎌倉女子大に代った松竹大船撮影所の裏の桜並木も春には盛りと咲き誇ります。
明月院は紫陽花寺として、6月の土日には車を通行止にして関東近郊からの観光客を受け入れています。明月院の紫陽花は、8割から9割が日本古来からの品種「姫紫陽花」で、意図的に青色の花を中心に植えているのだそうです。
しかし、参道には紫陽花に限らず梅、桜、銀杏と四季折々美しい花、黄葉が見られ、境内の庭園には花菖蒲や紅葉が見事に咲きます。
紫陽花など花の他、北条時頼廟や鎌倉十井のひとつ瓶の井、鎌倉のやぐら(鎌倉時代の横穴式墳墓)の中で最大級のものとされる明月院やぐらなどで知られています。
明月院は禅興寺の塔頭として上杉憲方を開基、密室守厳を開山で建立されました。
しかし、禅興寺は今廃寺として無く、又、その禅興寺も北条時頼が建立した最明寺が廃寺となったのを北条時宗が再興したものです。最明寺は北条時頼が山ノ内に持っていた邸宅内に建立されました。北条時頼は30歳の時(康元元年:西暦1256年)、そこで蘭渓道隆を戒師に出家して最明寺入道と称しました。>>>More
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