<稲村ガ浜・七里ガ浜周辺神社仏閣一覧>
小動神社・勧行寺・顕証寺・浄泉寺・東漸寺・法源寺
宝善院・本成寺・本龍寺・満福寺・妙典寺・霊光寺
<非公開の仏像や撮影禁止場所の写真は鎌倉シニア通信のお寺さん等より引用しています>
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<小動神社>
文治年間(西暦1185〜89年)の源平合戦の際に、佐々木盛綱が父祖の領国近江の八王子宮を勧請したのが始まりといわれ、新田義貞が鎌倉攻めをした時、神社に戦勝を祈願し、成就の後に太刀と黄金を寄進し、社殿を再興したと伝えられています。
明治元年(西暦1868年)に、地名を冠し小動神社と改称、地区の氏神になり、現在も腰越五ケ町の鎮守として敬われ、7月7日〜14日の例祭「天王祭」は、江の島八坂神社の天王祭と盛大に同時開催されます。
神社のある小動岬は神奈川県鎌倉市腰越にある岬で、八王子山とも呼び、幕末には台場(八王子山台場)が設置され川越藩・会津藩・長州藩などが沿岸の監視に携わっていました。岬内には展望台があり、相模湾を一望の下に置く事ができ、さらに晴れた日は富士山や伊豆半島も望めます。展望台下の岩礁は、昭和5年(西暦1930年)に当時帝大生だった作家太宰治が心中事件を起こしたところといわれています。
この事件は「太宰治の殺人」だったという説もあります。心中と見せかけて、太宰は相手の女給を殺した容疑は非常に濃厚だったようで、そのための調書をとられ、太宰もはっきりとその意志を認めているともいわれています。しかしながら、彼の父親が当時貴族院議員で、本人は帝国大学の学生、担当の宇野検事がたまたま太宰の父の実家である松木家の親類、担当の刑事もたまたま金木出身だったなど、また、女性の亭主にも高額な慰謝料を払い、事件をもみ消したと取りざたされています。>>>More
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<勧行寺>
正式な名前は、龍口山勧行寺と言い、日蓮上人が龍ノ口にて法難を免れた場所に建てられた龍口寺輪番八ヶ寺の一つです。
龍口寺輪番八ヶ寺とは、片瀬常立寺、本蓮寺、腰越本龍寺、勧行寺、法源寺、妙典寺、本成寺、東漸寺を言い、いずれも山号は龍口山です。
輪番制とは、日蓮上人の龍ノ口法難の地に建てられた霊場・龍口寺には住職を置かず、近くに八つの寺院を建て、それらの八つの寺院が順番に龍口寺を守った制度でした。輪番制は、明治19年(西暦1886年)龍口寺に住職を置くまで、およそ550年の永い間続けられました。
勧行寺は、開山を日実上人とし、嘉元元年(西暦1303年)に創建されました。
本堂には本尊は寺宝の三宝祖師と海中で見つけられた文殊菩薩像が祀られ、天井には「昇り龍・降り龍」が描かれています。境内入口には表に「龍口山勧行寺」、裏に「天保九年(西暦1838年)」と書かれた石碑が、入口正面境内には左腕に赤子を抱え観世音菩薩が、境内の奥には、表に「花囗庫に 開目抄の 龍を説よ」、裏に「平成六年五月、瓢左先生七回忌に際し都心連句会湘南吟社の有志之を建つ」と刻まれた清水瓢左句碑が立っています。
勧行寺は、天和3年(西暦1683年)に火災で堂宇を焼失、寛政3年(西暦1791年)には大暴風雨で流され、大正12年(西暦1923年)には関東大震災で潰されましたが、その都度再建されてきました。
本堂に祀られている文殊菩薩像には、胎内に海中出現文殊菩薩像がおさめられてられており、漁師によって釣り上げられたという言い伝えがあります。>>>More

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<顕証寺>
正式名称は鎌倉山顕証寺といい、東京乗泉寺の地方拠点第一号として、日蓮聖人が「御題目」を弘通せられた聖地鎌倉で産声をあげ、昭和22年(西暦1947年)に現在の地七里ヶ浜に建立された本門佛立宗のお寺です。
本門佛立宗は、日蓮聖人の教えをもとに「本門八品所顕 上行所伝 本因下種の南無妙法蓮華経」を老若男女一同、常に口に唱える、長松清風によって開かれた、日蓮を宗祖と仰ぐ、法華系の一派である新宗教です。
本山は京都にある宥清寺で、その他に由緒寺院として誕生寺(京都市)、長松寺(京都市)、佛立寺(大津市)、義天寺(守口市)があり、本尊は日扇自筆の要法本尊だそうです。
顕証寺は、江ノ島電鉄が境内入口前をのんびりと走っており、本堂前に立つと、山の緑を背に、目の前には七里ガ浜の、相模湾の、太平洋の大海原が広がり、右手に江ノ島が大きく見え、遠くに富士山が望める絶景ポイントで、海と富士山が望める墓地を希望する人達に人気のあるお寺で、周辺には日蓮上人の霊蹟が数多く残されています。
本堂への階段左下に作詩が信清要宏、作曲が叶弦大の「朝日に映ゆる冨士の嶺 緑の江ノ島前に見て 我が法城はここに建つ 恵みあり永遠の識神 妙法の五字 我等持たん」と刻まれた顕証寺の歌碑が立っています。お寺に歌碑というのはあまり見かけませんが、これも、新宗教のお寺というか、七里ヶ浜の小高い場所にある「鎌倉」のお寺、「湘南」のお寺であるためなのでしょうか。
境内に入ると寺務所のある大きな庫裡が建っており、右手に赤い柱と白い壁が印象的な本堂、本堂の右隣に納骨堂が建ち、その右奥には、墓石に満霊抜苦与楽「安」と書かれ、脇にある卒塔婆建てにペットの名前を書いた卒塔婆が並んでいる、ペットを供養する墓が立っています。>>>More
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<浄泉寺>
浄泉寺は、小動山松岩院と号し、古義真言宗大覚寺派で、開山は弘法大師(空海)、中興開山は元秀と伝えられています。元は青蓮寺(鎖大師)の末寺でしたが、現在は京都大覚寺の末寺となっています。昔、神仏を一緒に祀っていた時代は、「小動神社」と「浄泉寺」は一緒になっていたようで、大正6年(西暦1558年)小動神社の別当で、中興後二十二世栗林龍照の時、神仏分離したそうです。
新田義貞が鎌倉攻めの途中に、八王子社(現在の小動神社)に奉納した剣が、このお寺に保存されていた時期があったとか、文治年間(西暦1185〜89年)に、佐々木盛綱が船上からこの寺を拝んだという話も残っています。
昭和30年(西暦1955年)小動神社と続いていた寺の敷地内を、国道134号線が通るようになった時に、本堂の位置と向きを変え、山門も国道側へ移したとのことで、元は、今の浄泉寺を示す看板の場所にあったそうです。山門の色は、寺ではあまり見かけない朱塗りです。そのいわれは、山門は、結界への入り口である三門(三解脱門)と言われ、結界の中は汚れを嫌うため、魔よけの色である朱色に塗ってあるとのことです。ちなみに、四国八十八番札所の寺院でも、幾つかのお寺には赤い山門が見受けられます。
本尊は「不動明王像」で、左手に剣、右手に索を持ち「左剣不動明王」と言われています。寺宝の十一面観音菩薩像は、元は小動神社のご神体の「本地仏」でしたが、明治になって、浄泉寺でお祀りするようになったそうです。この十一面観音は、仏像としては古いタイプで、仏教が大陸から伝わった時期に好んで造られた形のようです。
鎌倉子ども風土記よると、江戸時代には、この付近の寺々では寺小屋が盛んで、明治5年(西暦1872年)に学制しかれると、散在していた寺小屋をここに集められて発蒙学舎となり、現在の腰越小学校の礎になったそうです。>>>More
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<東漸寺>
東漸寺の正式名称は龍口山東漸寺と云い、日蓮が法難を免れ、佐渡に流罪となった、龍ノ口刑場跡に、正平7年(西暦1352年)下総国(現・千葉県市川市)の中山法華経寺の日東上人を開山として創建された日蓮宗龍口寺輪番八ヶ寺の一つです。
東漸寺の山門は、薬医門と呼ばれ、傍らの石碑に彫られた碑文に依ると、この薬医門は、龍口寺門前で和菓子屋を営む上州屋六代目の新倉守蔵氏が、妻の早逝を悼み、昭和55年(西暦1980年)にその菩提を弔うために建立されたものと云われています。
更に、併せて、この山門を潜り参詣する人達が、投薬を受けずとも等しく長寿が得られるようにと祈願し、薬医門の形式を選定したとも伝えています。
薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたと云われていますが、医者の門として、門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても、四六時中患者が出入りできるようにしていたことから、この形を薬医門としたとも云われています。
基本は、前方(外側)に2本、後ろ(内側)に2本の4本の柱で屋根を支え、特徴は、屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)に位置せず、やや前方にくることだそうで、前方の2本の柱が本柱として後方のものよりやや太く、加重を多く支える構造になっているようです。
また、境内には日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながよし)博士夫妻の記念碑があります。長井博士は、弘化2年(西暦1845年)徳島藩医長井琳章の長男として生まれ、慶応2年(西暦1866年)長崎の精得館に赴いて、オランダ医のボードウィンに化学を、マンスフェルトに臨床医学を学んだと伝えられています。>>>More

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<法源寺>
正式の名は、龍口山法源寺と号し、もと中山法華経寺末寺であった日蓮宗の寺で、開山は妙音阿闍梨日行、本尊は三法祖師、草創は文保2年(西暦1318年)だそうです。
法源寺は常栄寺同様、「ぼた餅寺」と呼ばれており、日蓮が龍ノ口にて法難を免れ佐渡流罪に減刑された刑場近くに建てられた龍口寺の輪番八ヶ寺の一つです。
日蓮龍ノ口法難の際、龍ノ口刑場に引かれて日蓮に比企能員(よしかず)夫人の妹・桟敷尼が、ぼた餅を捧げた逸話はよく知られていおり、腰越にあった桟敷尼の実家の菩提寺がここだったことがその名の由来のひとつと言われています。
龍口寺の輪番八ヶ寺とは、片瀬常立寺、本蓮寺、腰越本龍寺、勧行寺、法源寺、妙典寺、本成寺、東漸寺を言い、いずれも山号は龍口山で、この制度は明治19年(西暦1886年)太政官布達により住職が龍口寺に入山し550年間続けられた輪番制はなくなりました。
本堂左に建つ稲荷堂には経一文殊稲荷大善神が祀られており、龍口寺の経八稲荷などと日蓮上人の身の安全を守ったと伝えられています。
寺の場所は、龍ノ口で処刑した死骸を捨てたところと云われ、境内からは刀傷のある人骨が出土したことがあり、刑死した諸霊を慰める為に八ヶ寺のうち一ヶ寺をここに移し、一木二体の祖師像を龍口寺および法源寺に分奉したと伝えられています。>>>More
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<宝善院>
加持山宝善院霊山寺は、加賀の白山(山岳信仰)の開山でも知られている福井県出身の泰澄大師が、今を去る千百五拾有余年の昔、天平神護年間(西暦765年〜767年)、この地に十一面観音様を勘請、人々の除災招福を盛んに祈念され、更に行基菩薩御作と伝う薬師如来、日光・月光両菩薩を祀りし、その名も泰澄山瑠璃光寺、加持山霊山寺として開山された真言宗の寺です。
以来、江ノ島や、津村などと深く係わりつつ、明治維新まで、津村龍口明神社別当として、この地の信仰の中心をなし、今日に至っています。
現在の堂宇は、昭和48年(西暦1973年)、宗祖弘法大師御生誕壱千百五拾年の記念事業として改築されたものです。
開山の泰澄大師は、白山で修験道の修行を行い、白山の神を祀り、それまで素朴な山岳信仰だった白山信仰に、仏教的な意義付けをしたと云われています。また、江ノ島神社や 龍口明神社などにも籠もり修行したと伝えられています。
泰澄大師は越前の人で、高句麗からの亡命帰化人の子であったといいます。伝承によると、奈良時代より少し前の文武天皇の時(西暦702年)、鎮護国家法師に任命され、中央の仏教界、政界の有力者などとの密接な関係を持ち、白山信仰を中央にまで広めたといいますが、正式な記録文書には泰澄の名はみえず、泰澄大師は中央との関係が本当は無かったのではないかとも言われています。
しかし、奈良時代から白山信仰は中央の貴族の間で盛んに行われており、京都の醍醐寺では白山信仰が受け継がれ、三宝院には白山権現を祀る社があり、泰澄大師が勧進したと考えても不都合はないように思います。>>>More
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<本成寺>
本成寺は、もとは本覚寺末寺で、日蓮の弟子淡路阿闍梨日賢が延慶2年(西暦1309年)に開山したと伝えられる片瀬龍口寺輪番八ヵ寺のひとつです。
「龍口寺輪番八ヵ寺」とは、かつて龍口寺に住職がおらず、代わりに八つの寺(片瀬常立寺、本蓮寺、腰越本成寺、勧行寺、法源寺、東漸寺、妙典寺、本龍寺)を龍口寺の周辺に建て、順番制でこの霊場を守っていました。
この制度は明治119年(西暦1886年)の太政官布達により、住職が龍口寺に入山し550年間続けられた輪番制はなくなりました。
江ノ電の腰越駅から50mほど北側へ行った小道を行くと、右側に「本成寺」と書かれた石碑の立つ路地があり、その突き当たりが本成寺で、門を入った正面に本堂、右に墓地、左に庫裡があります。
こぢんまりした境内には大きな松が伸びやかにすっと立っおり、緑青のふいた屋根をいただいた、これまた、こぢんまりとした本堂には、本尊の三宝祖師と日蓮上人像が祀られ、境内には稲荷明神も祀られています。
境内の右側の墓地には、ペットの墓や多数の石搭が積み上げられた無縁搭などが、葬られています。
この谷地近くには龍口寺輪番八ヵ寺のうち、勧行寺、妙典寺、東漸寺、本龍寺と本成寺の五ヵ寺が集まっており、本成寺と敷地を接して義経の腰越状で有名な満福寺があります。
腰越は、南を相模湾に面し、西は神戸川を挟んで腰越海水浴場、東は七里ヶ浜とそれぞれ接し、北側の陸地は、港のすぐ目の前を国道134号が通り、離岸堤が小動岬を丸ごと覆うように設置されている港からは、江ノ島を一望することができます。>>>More
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<本龍寺>
本龍寺の山号は龍口山と言い、日行上人を開山に、乾元元年(西暦1302)に創建された龍口寺輪番八ヶ寺(片瀬常立寺、本蓮寺、腰越本龍寺、勧行寺、法源寺、妙典寺、本成寺、東漸寺)の一つで、その中でも最も早い時期に建立された日蓮宗の寺です。創建当初は、与蓮山という山号でしたが、龍口寺の輪番制がなくなったときに、龍口山の山号に改められたそうです。
本龍寺は、比企三郎高家の屋敷跡に建立されたそうで、本堂には、本尊の大曼陀羅ほか、「雨乞をされている日蓮上人立像」、大黒天、鬼子母神、日行上人坐像がまつられ、境内には高家の墓所もあります。
日行上人は、奥州三迫加賀野氏(宮城県登米郡中田町石森字加賀野)の出で、本龍寺創建から37年後の延元4年(西暦1339年)、静岡県富士宮市にある日蓮正宗の総本山大石寺第5世住職となっています。
日行上人が鎌倉に住んでおられた徳治2年(西暦1307年)、大石寺では、坊地の土地の支配権をめぐり、日目上人(大石寺第3祖)の生母、蓮阿尼と南条時光が係争していたことが『富士宗学要集』(第八巻、二十三頁、)所集文書に、「富士の上方、上野の郷一分の給主、新田五郎後家尼蓮阿申す所当米以下公事等の訴状、此の如き子細状に見ゆ、早く之を弁え申さるべきの由に候なり、仍て執達件の如し。」と記されており、結果、蓮阿尼の支配地であることが幕府より確認されています。
鎌倉の日行上人も、出身の加賀野氏が、日目上人が新田小野寺の住職であった頃、その影響を受けて日蓮宗に帰依している関係から、幕府に対し何かと働きかけをしていたのではないでしょうか。>>>More
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<満福寺>
鎌倉の腰越にあるこの寺は、天平16年(西暦744年)僧・行基が開山した京都大覚寺派(真言宗)のお寺です。
奈良時代、関東に悪い病気が流行していたとき、聖武天皇にこの病気を排除するよう命ぜられた行基が、鎌倉へ来て、前に広がった海原と後ろの山並みがとても美しいこの場所で祈りをささげると不思議に病気がおさまったといわれ、功徳をたたえてここに寺を建てることにしたといわれています。
また、この寺は、源義経の腰越状で世に知られた寺で、源義経を語る際、絶対に落とすことは出来ない寺です。一の谷、屋島、壇ノ浦と次々に平家の軍を破って、平家を滅ぼし、元歴2年(西暦1185年)、平家の捕虜を連れて鎌倉の兄・源頼朝もとに向かいましたが、頼朝は義経を鎌倉に入る事を許しませんでした。
しかなく、義経は腰越の満福寺に逗留し、一通の嘆願状(腰越状)を書き、頼朝の信望の厚かった公文所別当・大江広元に差し出し、申し開きをしましたが、それも空しく、ついに鎌倉の門は開かれなかれませんでした。義経はそのまま京へ帰り、その後、藤原秀衡を頼って奥州平泉へ落ち伸びて行きました。
4年後の文治五年(西暦1189年)、秀衡が亡くなると、その子泰衡は頼朝の義経討伐命令に屈して、義経一党を襲撃したため、義経は平泉高館の持仏堂で自刃しました。
現在、このお寺には義経が手を洗ったといわれる井戸、弁慶の腰掛石、腰越状の下書きと実物大の版木、それから弁慶の椀・錫杖、義経絵巻襖絵があります。>>>More
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<妙典寺>
妙典寺は、山号を龍口山といい、日蓮が龍ノ口にて法難を免れた(佐渡に流罪となった)その場所に建てられた龍口寺の輪番八ヶ寺の一つです。
龍口寺の輪番八ヶ寺とは、片瀬常立寺、本蓮寺、腰越本龍寺、勧行寺、法源寺、妙典寺、本成寺、東漸寺を言い、いずれも山号は龍口山で、この制度は明治19年(西暦1886年)の太政官布達により住職が龍口寺に入山し、輪番制が廃止されるまで、550年間続けられました。なお、輪番八ヶ寺の山号が統一されたのは、輪番制が廃止された時と、言われています。
妙典寺の創建は、延慶元年(西暦1308年)、開山は天目上人で、本堂には本尊の三宝祖師と共に日蓮上人、天目上人の像が祀られています。
天目上人は、妙典寺の他にも妙顕寺(栃木県佐野市)、妙国寺(東京都品川区)などを開いたと伝えられている高僧です。
妙典寺は、腰越の細い路地が多い住宅街の中にあるこぢんまりとしたお寺で、かつては、「腰越の谷戸寺」と呼ばれていました。境内に入ると左側が庫裡、正面に本堂があり、本堂前の右側には松が、左側にはサルスベリが形良く枝を伸ばし、手入れの行き届いた植栽が立ち並んで、季節の時期々々に綺麗な花を楽しませてくれます。
本堂向拝の右側に真っ黒な大黒天像が安置されています。大黒天は仏法を護り、飯食を豊かに、福徳を給う神様として、仏教では福徳円満自在菩薩の化身と説かれています。大黒様の頭を撫でて、合掌し心静かに大黒天神授文を3回唱えると、本堂内の大黒天を拝むと同様のご利益が得られると言われています。>>>More
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<霊光寺>
霊光寺の山号は龍王山で、日蓮宗の霊場のひとつとして、山間の住宅地にひっそりと小さな堂だけが立つ静かなお寺です。
文永8年(西暦1271年)の干ばつの際、日蓮上人が極楽寺の忍性菩薩と雨乞い祈願を競って勝ち、雨を降らせたと伝わっています。境内には雨乞い池とよばれる田辺ケ池があり、本堂脇に日蓮雨乞いの像が立っています。
お堂の創建は新しく、享保20年(西暦1735年)江戸講中が建てた「日蓮大菩薩祈雨之旧地」と記された石塔が出土したため、昭和32年(西暦1957年)日蓮上人像と本堂を建立したそうです。
祈雨対決は文永8年(西暦1271年)の大干ばつに見舞われた時、執権北条時宗が極楽寺の忍性菩薩に雨乞いの祈祷を半月あまり命じましたが、雨は降らず、代わりに日蓮上人が田辺ヶ池の現在日蓮上人像の立っているあたりで法華経を唱えると、雷とともに大雨が降り始め数日間降り続けたとのことです。それ以来、日蓮上人の法華経により雨の神「八大龍王」の力を得た田辺ヶ池は『雨乞いの池』と云われるようになりました。
この対決は日蓮宗では日蓮上人が勝ったことになっていますが、その後、度々日蓮上人が法難に遇っていることと合わせると、執権北条時宗は、忍性の半月あまりの努力によって、日を置かずして雨が降り出したと認めたのでしょう。それを日蓮上人が持ち前の闘争心から、自分が勝ったと余りにも喧伝したことで、執権時宗の不興をかったことも考えられます。
聡明な北条時宗にとっては、科学的見地から雨の降る時期を大体予見しており、雨乞いは人心を安定させるための儀式として実施し、忍性菩薩・日蓮上人双方に華を持たせたかったのではなかった推測します。>>>More
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