<二階堂・金沢街道周辺神社仏閣一覧>

                       荏柄天神大蔵稲荷神社鎌倉宮熊野神社(朝比奈)

                       熊野神社(浄明寺)
十二所神社
八雲神社(西御門)

         永福寺跡覚園寺光触寺松久寺浄妙寺
釈迦堂跡太平寺跡瑞泉寺杉本寺

         大慈寺跡
東光寺跡(東光禅寺)報国寺
明王院来迎寺(西御門)理智光

                        <非公開の仏像や撮影禁止場所の写真は鎌倉シニア通信のお寺さんより引用しています>

                                            このホームページに掲載されている資料を使われる方はご連絡下さい。
                                                                                         
<問い合わせ先>



                                              <荏柄天神>

   学問の神様と言ったら、まず頭に浮かぶのは菅原道真公です。皆さん、鎌倉にも天神さまがあるのをご存知ですか? 鶴岡八幡宮から鎌倉宮への道すがら、二階堂字荏柄74番地に荏柄天神という天神さまがあります。
   荏柄天神の祭神は、勿論、菅原道真公です。相殿として八雲大神(須佐男尊:すさのおのみこと)と二階堂の鎮守さまである熊野三柱神が祀られています。
   
荏柄は元々「荏草(えがや)」と呼ばれていたそうで、天平7年(西暦735年)の「相模国封戸租交易帳」の中には、この辺りを荏草郷(えがやごう)と記されています。それが、何時頃からか荏草(えがら)となり、今の荏柄(えがら)となったようです。
   荏柄天神は、源頼朝により幕府の鬼門の鎮守として長治元年(西暦1104年)に勧進されました。
   菅原道真公が大宰府で亡くなられてから(延喜3年:西暦903年)、300年後の建仁2年(西暦1202年)には、二代将軍源頼家が、大江広元を奉幣使として荏柄天神に遣わされ、300年祭を営んでいます。
   
源頼朝は、何故、天神さまを幕府の鬼門の鎮守として勧進されたのでしょうか。天神さま、即ち、菅原道真公は、童謡「とうりゃんせ」、学問の神様として人々から敬われています。「鬼門の鎮守」にそぐわないのではないでしょうか。>>>More

 
>>>Top          >>>Home



                                             <大蔵稲荷神社>

   雪ノ下の小富士と言われている山の中腹に、地元の人達に大蔵稲荷神社と呼ばれている稲荷社があります。
   「吾妻鏡」の弘長元年(西暦1261年)5月の項に「鎌倉に於いて、密に大倉稲荷社に会合するものあり。夜行番これを発見して逮捕せんとせしも、逃れて行くところを知らず。」と書かれている大倉稲荷社がこの稲荷社ではないかと云われています。
   
その後、大倉稲荷社の名は室町・安土桃山時代の史料には見当たりませんが、江戸時代になって編纂された「新編相模国風土記稿」には「宝戒寺の持ちである小町の稲荷社が岩窟中にある」と記載されています。
   現在も社殿の裏に祠が入るくらいの岩窟があることから、「新編相模国風土記稿」にある「小町の稲荷社」がこの「大蔵稲荷」であると思われ、「吾妻鏡」の「大倉稲荷社」であると思われます。
   稲荷は、大塔宮(鎌倉宮)へ向かう道との「岐れ道」の手前、20〜30メートルのところを右に入ると、滑川に架かる大蔵稲荷橋という橋に出会います。この橋の先に「大蔵稲荷神社」の鳥居が見えますが、社殿は山腹の階段を登ったずっと奥にあります。
   階段を登らずに鳥居をすぎると、すぐ左手に5基の庚申塔と仏像が刻まれた石塔、妙見菩薩や猿田彦大神と彫った石塔の計8基あり、天保3年(西暦1832年)から慶応2年(西暦1866年)にかけて造立されたと思われます。
   「小町の稲荷社」が載る「新編相模国風土記稿」の着手が、天保の大飢饉が襲った3年前の天保元年(西暦1830年)で、完成したのが、水野忠邦が行った天保の改革の始った天保12年(西暦1842年)です。
   庶民にとって、庚申塔を造立してまでも神・仏に祈らずにはいられない時代で、このときに庚申塔造立とともに、大蔵稲荷神社に詣でるようになったため、
「新編相模国風土記稿」に記載されるようになったのかもしれません。>>>More


 
>>>Top          >>>Home


                                           <鎌倉宮(大塔宮)>

   鎌倉宮は、明治2年(西暦1869年)、明治天皇によって後醍醐天皇の第三皇子護良親王を祭神として、親王終焉の地である東光寺跡に創建された比較的新しい神社です。
   護良親王は、元弘2年(西暦1332年)隠岐に配流されている天皇の代わりとなって、楠木正成らと、幕府の大群を吉野城や千早城に引きつけ、この間に、親王の討幕の令旨を各地の武士に発し、それに応じて挙兵した足利高氏、赤松則村が六波羅探題を落し、新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府を滅しました。
   天皇は京都に還御され、親王はこの功により兵部卿・征夷大将軍となりましたが、高氏は征夷大将軍を欲し、更に、諸国の武士へ武家の棟梁であることを誇示したため、親王は、高氏による幕府擁立を危惧し兵を集めますが、逆に高氏の奸策に遭い捕らえられ、鎌倉東光寺の土牢に幽閉されました。
   建武2年(西暦1335年)6月、西園寺公宗が後伏見上皇を擁立し、北条時行・泰家らと建武政権への謀反を計画しましたが、計画は事前に漏れ、公宗らは捕縛されました。しかし、北条時行は信濃の諏訪頼重・時継父子の援軍を得て信濃守護小笠原貞宗を撃破、更に、鎌倉方の足利直義の軍勢を女影原・小手指原・府中・井出沢で撃破し、7月、北条時行は鎌倉を奪回しました。このとき、直義は護良親王を殺害し成良親王を連れて三河へ逃亡しました。
   鎌倉宮境内では、毎年10月に薪能が開らかれ、金春宗家、狂言山本流宗家、観世流が参加し、多彩な演能が催されます。薪能は元来、奈良の春日若宮社、興福寺で行われた神事ですが、戦後、鎌倉の歴史的風土に根を下ろし、境内に野外の能舞台を設けてカガリ火を焚き行われます。>>>More

 
>>>Top          >>>Home



                                                            <熊野神社(朝比奈)>

   熊野神社は、横浜口から朝比奈切通しを登ると、市境のあたりにある切岸を経て、左熊野神社・右かまくらの道標に出会い、道標に従い左に進むと、瀟洒にして静謐、周りは森に囲まれた社殿がひっそりと佇んでいます。本殿裏から左手に延びる山道は、十二所果樹園を経て、三郎の滝まで続いています。
   熊野神社は、鎌倉時代から続く由緒ある神社で、明治6年(西暦1873年)村社に列格となり、昭和9年(西暦1934年)神饌幣帛料供進神社に指定されています。熊野神社の場所は、鎌倉の鬼門にあたるため、源頼朝は鎌倉に入るとすぐ、熊野三社大明神を勧請し、その後、仁治年間(西暦1240〜43年)に北条泰時が、朝比奈切通しの開鑿に際し、新たに社殿を建立したと云われています。
   元禄8年(西暦1695年5)に地頭の加藤太郎左衛門尉が再建し、安永(西暦1772〜81年)及び嘉永(西暦1848〜54年)年間にも修築が行われているそうです。
   
現在の社殿は、昭和53年(西暦1978年)本殿が新築され、更に、平成元年(西暦1989年)御大典を記念して新拝殿が完成された、比較的新しいものです。
   朝比奈切通しは鎌倉七口の一つに 数えられ、他の切り通しと違い殆ど近代化されておらず、切通しが鎌倉と金沢文庫を結ぶ道として使われていた往時の雰囲気が味わえます。横浜との市境のあたりにある切岸崖壁には、いつ頃に作られたものなのか詳しいことは分りませんが、仏像が彫られており、更に、道造供養塔や安永9年(西暦1780年)峠坂道普請と書かれた石塔が置かれています。>>>More

 
>>>Top          >>>Home



                                                            <熊野神社(浄明寺)>

   新編相模風土記稿に「熊野社、泉水ケ谷字東之澤、宝生庵跡の東にあり。此吾を御坊と云う。村の鎮守なり」とあるように、古くから、鎌倉五山の一つである浄妙寺がある、浄明寺地区の氏神様として信仰されてきました。しかし、勧請の年代は詳らかではありません。
   社伝によれば「応永年中及永正年中、社殿を再建すと伝う。」とあり、また、棟札に、「文久三癸亥星春二月二十一日吉曜宿、社殿再建」とあることから、応永年間(西暦1394〜1428年)と永正年間(西暦1508〜21年)に社殿を再建したことが分ります。
   
祭神は、伊弉諾命 (いざなぎのみこと) 、伊弉冊命 (いざなみのみこと) 、天宇頭女神 (あめのうずめのかみ)で、明治6年(西暦1863年)には、国より正式に浄明寺地区の鎮守として認められています。
   熊野神社は、浄明寺山門の手前の道を左に曲がり、突き当ったところにある鳥居をくぐり、山道を50mほど登った所にあります。
   更に奥には、室町幕府初代将軍足利尊氏の弟の直義が館を構えた場所と云われ、その後、この一帯に、覚智禅師月山希一を開山として臨済禅寺の熊野山大休寺が創建され、熊野神社はその大休寺の境内にあったと考えられています。なお、大休寺は足利十二寺の一つでしたが、現在は、廃寺となっています。
   浄明寺地区一帯は、頼朝挙兵に参加した足利義兼が、鎌倉幕府開府(西暦1192年)以来、ここに居を移し、享徳4年(西暦1455年)足利成氏が下総古河(今の茨城県古河市)に移るまで、子々孫々に亘り2百数十年間住み続けてきたそうでが、今は「足利公方邸旧跡」の碑だけが残るだけです。
>>>More

 
>>>Top          >>>Home



                                              <十二所神社>

   もとは「熊野十二所権現社」と称し、光触寺境内にありましたが、弘安元年(1278)の創建と伝わる。天保9年(西暦1828年)に現在位置に移転。明治に入り「十二所神社」と改名しました。
   
祭神は天神七柱と地神五柱で、熊野三山の神「家都御子神」「熊野速玉男神」「熊野牟須美神」を勧請し、明治の神仏分離までは「十二所権現社」と呼ばれていました。
   十二所神社の前から東へ分岐する道がありこの道が朝比奈切通への旧道です。この道に入ると直ぐ左手に庚申塔や馬頭観音の石仏が塚上に見られます。石仏は江戸期のものと思われますが、この塚状の遺構は、幅と高さが4メートルほどあり、塁壁の残存と考えられています。十二所神社から朝比奈切通へ向かう一帯は朝比奈砦跡として、現在は遺跡に指定されています。
   
朝比奈砦跡は朝比奈切通の西側にかって存在した峠の防御施設と思われ、発掘調査が行われており、これまでに中世の堀立柱建物跡や荼毘などの遺構や14世紀頃と思われる納骨堂跡も発見されています。
   朝比奈切通は、3代執権北条泰時が開いたものですが、切通の名は、朝比奈三朗義秀という豪傑が一夜にしてこの切通しを作った、という伝説からきています。>>>More

 

>>>Top          >>>Home



                                                            <八雲神社(西御門)>

   八雲神社は、来迎寺(西御門)の参道入口の左手にありご祭神は須佐男命ですが、縁起については詳細不明です。入口の鳥居にはワカメが掛けられています。神社にワカメとなると、和布刈神事を連想します。
   和布刈神事は、九州門司にある和布刈神社の神事として有名で、戦前は秘事として非公開でしたが、現在は、旧暦元旦の午前3時頃、衣冠に正した神官3人が、鎌と桶を持ち、松明で照らされた社前の石段を降りて厳寒の海に入り、ワカメを刈る姿を公開しています。
   この神事は、航海の安全と豊漁を祈願するもので、古くは「李部王記」という書物に、和銅3年(西暦710年)神事で刈ったワカメを朝廷に献上されたと記されているそうです。八雲神社鳥居にワカメが掛けられているいわれは、不明ですが、海のある鎌倉のこと、何か神事があったことは想像に難くありません
   神社入口の鳥居の右手後方に庚申塔が3基並んでいます。左より1番目にある船型の庚申塔には、種子(阿弥陀如来)と合掌六臂青面金剛、下辺に鶏と三猿が彫られており、元禄5年(西暦1692年)の銘があります。左より2番目にある船型の庚申塔には、大日如来を表す梵字が刻まれており、その下に、四臂の青面金剛が彫られています。庚申塔で四手の青面金剛像は少なく、鎌倉でも2基だけで、青面金剛が弓矢を持つのもここが最初だそうです。銘は延宝8年(西暦1680年)とあり、昭和40年(西暦1965年)に鎌倉市の有形民俗資料に指定されています。左より3番目にある笠塔婆型の庚申塔には、六手の青面金剛が彫られており、体の前においた右手には髪の毛をもって人を吊り、左手には剣を、他の手には剣、輪宝などを持っており、文化5年(西暦1808年)の銘が刻まれています。>>>More

 
>>>Top          >>>Home


                                                                 <永福寺跡>

   源頼朝は鎌倉に3つの大きな神社仏閣を建立しています。一つ目は鶴岡八幡宮、二つ目は勝長寿院、三つ目は永福寺です。現在残っているのは鶴岡八幡宮だけで後の2つは焼失してしまいました。永福寺跡は周辺約9万平方メートルあり、国指定史跡に指定されています。この寺は、源義経や藤原泰衡を初め、奥州合戦の戦没者慰霊の為に建てられた寺で、平泉の二階堂大長寺院等を模倣して、文治5年(西暦1189年)12月に着工されました。
   堂は左右対称に、二階堂を中心に北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂が配置され、東を正面にした全長が南北230mの大伽藍でした。また、前面には、南北200m以上の池が作られていたようです。応永12年(西暦1405年)に焼失してしまい、現在は二階堂という地名だけが残っています。鎌倉宮から瑞泉寺へ向かう途中、通玄橋の手前で左に折れ、二階堂の谷奥に美しいオギ(荻)の原があります。そこが永福寺跡です。
   永福寺は幕府の御願寺として手厚く保護されましたが、応永12年(西暦1405年)に焼失し、江戸時代初期頃に廃寺となりました。四ツ石という地名は永福寺の総門の礎石にちなむものだそうです。
   鎌倉市と湘南工科大学は、平成16年(西暦2004年)より「史跡永福寺跡CG復元プロジェクト」を開始し、鎌倉市による長年にわたる発掘調査により明らかにされた、在りし日の永福寺の全貌を、コンピュータグラフィックによって復元することを目指しています。現在は、建物部分の詳細な図面の作成や、建築史に基づき作業を進められており、その一部が静止画で紹介されています。鎌倉市ではこの土地を買い上げ、平成26年度(平成2014年度)を目標に史跡公園として公開・活用することを計画しているそうです。>>>More

 
>>>Top          >>>Home


                                              <釈迦堂跡>

   釈迦堂は、元仁元年(西暦1224年)に、鎌倉幕府三代執権の北条泰時が父義時の菩提を弔うために、釈迦堂ヶ谷に建立したと伝えられています。釈迦堂切通し一帯は北条時政の屋敷跡で、釈迦堂は洞門の北側入口(浄明寺側)の西方にあったと云われ、字名が釈迦堂として残っていますが、未だに場所は何処か分からず、幻の寺と云われています。
   
釈迦堂は、釈迦如来像を本尊とする仏堂または寺院に付せられる名称で、各地に同名の仏堂および寺院が多く存在します。しかし、釈迦如来像を本尊とする仏堂の全てが「釈迦堂」と呼称される訳ではないようです。
   ヨーロッパには、騎馬戦術が主流だった中世において、街を城壁で囲んで、敵の攻撃を防ごうとする城塞都市が各地にあります。日本では、本格的な城塞都市は出現することはありませんでしたが、鎌倉は、北・東・西の三方を山で囲まれ、南は海に面している地形を利用し、敵から幕府だけでなく、街に暮らす民衆をも守っており、城壁はなくとも城塞都市の形態を持ち合わせていたと思われます。
   
この城塞都市鎌倉の入口は、「鎌倉7切通し」とか「鎌倉7口」とか言われるもので、山を人工的に削って、馬一頭がかろうじて通れるような細い道(切通し)を作り、いざ敵が攻めてきたときは、ここに守りの兵隊を固めて、敵の侵入を防ぐというものでした。
   鎌倉7切通しとは、朝比奈、化粧坂、極楽寺坂、亀ヶ谷坂、大仏坂、巨福呂坂、名越であり、釈迦堂切通しは、鎌倉と外界を結ぶ切通しではなく、鎌倉の中の町と町を結ぶ切通しとして作られました。釈迦堂切通しは、名越方面への主要道でした。

   なお、釈迦堂切通しの上にある唐糸やぐらなどの史跡群があり、恨みの魂でしょうか、この場所で撮影した写真にいるはずのない武士の姿が写っていたとか。怖いですね〜〜!!>>>More

 
>>>Top          >>>Home


                                                     太平寺跡>


   太平寺は弘安期(西暦1278〜88年)に、相模の豪族の娘である妙法尼が開創し、初代関東公方足利基氏の妻清渓尼が中興した寺で、室町時代に定められた鎌倉尼五山(他に東慶寺・国恩寺・護法寺・禅明寺)の筆頭に位置にありましたが、天文(西暦1532〜55年)の頃、千葉の里見義弘の鎌倉攻めがあり、その結果、当時一帯を治めていた北条氏綱の手で廃寺となりました。その後、寛永19年(西暦1642年)に紀州徳川家の家老水野淡路守重良が太平寺の遺跡を修復、日蓮宗の尼寺高松寺を建立し、近代では男爵水野家の持ち寺となって、代々和歌山県の新宮寺から住職が来ていましたが、昭和6年(西暦1931年)に廃寺となり、宮城県栗原郡若松へ移転しています。
   『新編鎌倉誌』によれば、太平寺は代々比企一族の尼寺でしたが、源頼朝が池禅尼の昔の恩義に報いるため、その姪のために建てさせたと云われていますが、東慶寺の開創に類似していて、寺伝の域を越えていません。
   大平寺は、色々と数奇な運命を経て廃寺となりましたが、現在でも、当時の貴重な建物、品々が残っています。
   
我国最古の本格的禅宗様建築として国宝に指定されている円覚寺の舎利殿は、太平寺の観音堂を移築したものであり、また、その跡に建てられた高松寺の山門は、蕎麦で有名な鎌倉山にある擂亭の門として、往時の姿を残しています。
   その他に、太平寺の本尊聖観音菩薩像は東慶寺に移され、大町の別願寺に伝わる青磁酒会壺は太平寺跡から出土されたと云われています。>>>More

 
>>>Top          >>>Home


                                               <覚園寺>

   参道は短いながらも手つかずの自然が残されており、境内も鎌倉の地形の特色である尾根と尾根の間に深く入り込んだ谷を利用し、樹木が多く、自然環境が良好に保持されて鎌倉時代の風情を残した静寂な所です。
   
山号は鷲峰山、開基は北条貞時、開山は智海心慧、本尊は薬師如来で、元々、鎌倉幕府二代執権・北条義時が、建保6年(西暦1219年)に建てられた薬師堂を永仁元年(西暦1296年)に北条貞時が、元寇襲来がないことを祈り、寺に改めました。その後、火事で焼失しましたが、文治3年(西暦1354年)、足利尊氏によって再建されました。
   入口右手に広がる竹林の中に建つ愛染堂は、明治38年(西暦1905年)に旧大楽寺本堂を移築したもので、非公開ですが、鎌倉時代後期の作の愛染明王坐像や、阿閃如来坐像、大楽寺の本尊であった不動明王坐像などが安置されています。
   茅葺き寄棟造りの屋根が特徴的な薬師堂は、元禄年間に再建され、堂内の正面に鎌倉有数の巨像である本尊の薬師三尊坐像をまつり、左右には薬師如来を守護する十二神将立像があります。
   
鎌倉時代に作られた黒く煤けた地蔵菩薩立像を安置する地蔵堂では、毎年8月10日の縁日が開かれています。地蔵は「黒地蔵」や「火焚き地蔵」と呼ばれ、業火に焼かれる罪人の苦しみを和らげようと、地獄の番人に代わり火焚きを行い、そのため焼け焦げてしまったといわれています。周囲には黒地蔵の分身とされる千体地蔵が並び、祈り続けると千体のうち一体が亡くなった人の姿に変わるとも伝えられています。>>>More

 
>>>Top          >>>Home


                                               <光触寺>

   寺の正式名称は、岩蔵山光触寺と号し、弘安2年(西暦1279年)に創建、開基は時宗の開祖・一遍知真上人で、開山は元真言宗の僧侶だった作阿上人と伝えられています。以来、念仏道場として栄え、鎌倉三十三所観音霊場第5番札所となっています。
   開祖の一遍上人は、踊り念仏で知られ、鎌倉に光触寺のほか別願寺など7つの時宗の寺がありますが、一遍上人は生涯、寺を持とうとせず遊行に生きましたので、今日ある時宗の寺は、全て一遍上人の死後に建てられたものです。
   光触寺は、もともとは真言宗の寺でしたが、弘安2年(西暦1297年)に作阿上人が開山し、時宗に改めたと伝えられています。
   本尊は運慶作の阿弥陀三尊像(重要文化財)で、別名、頬焼阿弥陀と呼ばれ、盗みの疑いをかけられた法師の身代わりになり、頬に焼印が残ったという話が伝えられています。
   本堂の脇にある塩嘗地蔵は、もともとは金沢街道の傍らにあり、六浦の塩売りが毎朝この地蔵に初穂の塩をお供えすると、帰りには地蔵が塩を嘗めてしまわれ、必ず無くなっていたので、地蔵がなめたのだろうということで、塩嘗の名が起こったと言われています。
   真言宗の開祖、一遍上人の思想は、はるか昔、法蔵菩薩が阿弥陀仏になったときから、衆生の往生は決定しているという本覚思想にもとづいたもので、南無阿弥陀仏の名号そのものに絶対的な力があるため、衆生の信と不信、浄と不浄などの別はいっさい関係なく、ひたすら名号をとなえれば救われるという純粋な発露が、踊念仏になったといいます。
>>>More

 
>>>Top          >>>Home


                                               <松久寺>

   東京の芝愛宕町にある青芝寺の末寺で、山号は長盛山松久寺といい、開山が明暦元年(西暦1655年)に没した暉山吐光禅師心霊牛道と伝えられる曹洞宗の寺です
   元々は港区芝白金の天神坂を下った古寿老稲荷神社の向かい側にあり、昭和41年(西暦1966年)に現在の地へ移転された、『鎌倉市史(社寺編)』(三版)にも載っていない、新しい寺です。天神坂の由来は、松久寺の境内に菅原道真を祀る祠があったためといわれています。
   
松久寺の本尊は石造地蔵菩薩立像で、寺宝は元治2年(西暦1865年)銘のある木造韋駄天立像と木造天神坐像です。
   松久寺といえば、池波正太郎の『鬼平犯科帳』を思い出しませんか。松久寺の名が「
消えた男」に出てきます。
   
鬼平犯科帳に登場している江戸と江戸近郊で盗賊に押し入られる寺院は、ほとんど架空の寺院で、松久寺は中目黒の寺として出てきます。
   
しかし、松久寺が江戸の芝白金に創建されたのが明暦(西暦1655〜58)以前であり、鬼平犯科帳の長谷川平蔵が火付盗賊改方長官であったのは、天明7年(西暦1787年)から寛政7年(西暦1795年)で、鬼平と中目黒に近い芝白金の松久寺が同時代の江戸に存在していることから、架空とはいえ、中目黒の寺のモデルが芝白金にあった寺であると勝手に推定している次第です。
>>>More

 
>>>Top          >>>Home


                                              <浄妙寺>

   五山の制度は印度の五精舎にならい、中国南宗末期に禅宗の保護と統制のため格式高い五つの寺を定めたことに由来します。
   鎌倉幕府が開かれる前年の建久2年(西暦1191年)に南宋から帰国した僧侶栄西らによって伝えられた禅宗は、南宋にならい五山制度を導入、鎌倉の主な禅刹を五山と呼ぶようになりました。鎌倉幕府滅亡後の室町初期には鎌倉・京都それぞれに五山が定められ、それに次ぐ十刹と緒山が選ばれこの制度が定着したといわれています。
   その後たびたびの改定を経て、至徳3(1386)年足利義満のとき、五山の上に南禅寺がおかれ、京五山および鎌倉五山が定められました。元和元年(西暦1615年)には徳川幕府が五山十刹に対し法度を出しました。
   
浄妙寺は、臨済宗建長寺派で鎌倉五山の第五位、山号は稲荷山、文治四年(西暦1188年)に足利義兼が開創、開山は退耕行勇と伝えられています。はじめは密教系の寺院で極楽寺と称していましたが、蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職になってから禅刹に改め、次いで寺名も改称するに至りました。改宗時期は正嘉年間(西暦1257〜59年)のはじめ、と推定されます。
   開創の足利義兼の父足利義康は、祖父で八幡太郎源義家の子の義国と同様、鳥羽法皇の北面の武士として仕え左衛門尉に、そして保元の乱(1156)では、後白河天皇方として平清盛三百騎、源義朝二百騎、と並んで百余騎を率いて戦い、その功によって昇殿を許され、従五位下検非違使に叙任した関東武士団にとっては格の違う名門です。
>>>More


 
>>>Top          >>>Home


                                               <瑞泉寺

   瑞泉寺は鎌倉きっての花の寺として有名で、早春の水仙、梅に始まって花の絶える時がなく、また、境内全域が国の史跡、庭が名勝に指定されています。
   本堂の左手に夢想疎石が岩肌を削って座禅窟を造り、その前面に心字池をあしらっただけの簡素な裏庭があり、鎌倉の庭の中でも一番の評価を得ており、京都の竜安寺石庭と対を成す庭と言う人も多くいます。
   瑞泉寺は錦屏山と号し、開山は夢想疎石、中興開基(それまでは瑞泉院)は足利基氏で、臨済宗円覚寺派に属しています。瑞泉寺のある谷は紅葉谷と呼ばれており、山号の錦屏山はその紅葉に因んで付けられたと言われています。
   夢想疎石は宇多源氏の出で、建治元年(西暦1275年)に伊勢で生まれ、3歳の時に母方(平氏)の紛争で甲斐に逃れ、6歳の時に甲斐の平塩山寺で出家しています。18歳の時に東大寺戒壇院に赴き受戒、20歳の時から建仁寺で蘭渓道隆の弟子の無隠円範に学び、鎌倉禅林への道が開かれました。
   夢想疎石は永仁3年(西暦1295年)に鎌倉に下り、東勝寺に入り、東勝寺が火災に遭った後、建長寺に移りました。その後、東北地方(出羽、陸奥、那須)を巡り、元徳元年(西暦1329年)執権北条高時の招きによって円覚寺に入りました。翌年8月に瑞泉院に住むことになりましたが、これが瑞泉寺の発端です。
   
瑞泉寺と言えば、庭園です。夢想疎石は嘉暦3年(西暦1328年)に観音殿、一覧亭を建てると共に造園(疎石の作でないとの説もあります。)を行い、しばしば詩会を催していたようです。>>>More

 
>>>Top          >>>Home


                                                                   <杉本寺>

   杉本寺は、金沢街道沿いの森の中にあり、十一面観音と書かれた林立する幟旗と苔むした鎌倉石の階段は、さすが、鎌倉最古の霊場といわれる歴史を感じさせる風情があります。
   
天平六年(西暦734年)に光明皇后の発願によって藤原房前と行基が開いたと伝えられています。正確には、大蔵山杉本寺観音院といい、十一面観世音菩薩三体が本尊として納められています。
   永禄三年(西暦1560年)書写の『杉本寺縁起』によれば、天平六年(西暦734年)僧行基が自刻の十一面観音を安置して開創とあります。後に慈寛大師が同じく十一面観音を内陣の中尊として納め、天台の法流に属せしめ、更に寛和二年(西暦986年)恵心僧都が花山法皇の命を受けて、十一面観音を奉安したと伝えられています。また、『吾妻鏡』文治五年(西暦1189年)の条に「夜に入りて大倉観音堂回禄」とあり、時に別当浄台房が煙火の中から本尊三体を運び出しましたが「衲衣わずかに焦ぐといへども身体あえて恙なし」と語られています。この頃から多くの信者を迎え『坂東霊場記』には、この時に本尊自らが境内の杉の木のもとに難を避けられたので、それ以後、杉本寺と呼ばれることになったとあります。
   この寺には信仰心のない者が寺の前を乗馬したままよぎると落馬するという伝えや、後に建長寺開山大覚禅師が袈裟で尊顔をおおったら、そのことは止んだので下馬観音・覆面観音といわれたなど、いかにも当時の武士たちとつながりの深い話です。>>>More


 
>>>Top          >>>Home


                                                                 大慈寺跡

   大慈寺の山号は阿弥陀山、新御堂と呼ばれた、建暦2年(西暦1212年)に源実朝がが「君恩父徳」に報謝するために建てられた、壮麗な寺院だったようです。
   
建保2年(西暦1214年)には大供養が催され、尼御台政子および将軍源実朝は大いに格式を整えてこれに臨んだそうです。建保5年(西暦1217年)には中国の宗王朝から求めた仏舎利がここに迎えられています。
   大慈寺は、現在、十二所にある明王院の東一帯がにあったと云われ、壮大な七堂伽藍や長谷の大仏以前に造られた大仏を有する幕府の巨大な祭儀センターであったようです。しかし、正嘉元年(西暦1257年)1月に関東南部にマグニチュード8クラスの大地震が襲い、鎌倉凡ての寺社倒壊、山崩れ、地割れ、人家顛倒したとの記録があり、大慈寺の七堂伽藍も一夜にして灰塵に帰し、大仏の首も折れてしまい、今は仏頭だけ光触寺に安置されているそうです。
   
時の征夷大将軍宗尊親王は、本堂を始め、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重の塔、鐘楼等すべてに修理が加えたと『吾妻鏡』に記されていますが、江戸時代には丈六堂だけが残り、今は、廃寺となって碑の傍らに礎石を残すのみで、仏舎利は円覚寺に移され、国宝・円覚寺舎利殿に納められています。
   大慈寺跡の向かい側に大江広元屋敷跡があります。大江広元は、源頼朝に招かれ鎌倉に東下し、頼朝の参謀役として鎌倉幕府の基礎を築いた文官で、その子孫は相模国毛利庄を地盤にし、やがて中国地方へと移り、大豪族・毛利氏の祖先になっていきました。>>>More


>>>Top          >>>Home


                                         <東光寺跡(東光禅寺)

   今回も、前回に引き続き東光寺を取り上げました。しかし、今はその場所に鎌倉宮が建つ方です。
   平成9年(西暦1997年)有隣堂から出版された「鎌倉の廃寺」よると、開山未詳、吾妻鏡の建久2年(西暦1191年)2月15日の条に、頼朝が大倉山辺を歴覧して伽藍を建てようとし、同じく建久4年(西暦1193年)11月8日の条に、永福寺傍の梵宇に薬師像を安置と書いています。そのことから、薬師堂が風土記稿の憶説にあるように、東光寺が医王山の名を負っている点と併せ、その位置が東光寺の前身かと推測されます。
   吾妻鏡建久4年(西暦1193年)11月27日条によると、この堂は永福寺の伽藍の一環として建てられたものであったと思われます。
   
鎌倉大日記等によって後醍醐天皇の皇子護良親王が、当寺において足利直義のために生害されたことが知られており、その場所が、太平記に「二階堂の谷に土の牢を塗りてぞ置進らせける」ありますが、鎌倉大日記・桜雲記・風土記稿にあるように、これは「土もて塗籠たる、獄舎」のことであって、山腹の土穴のことでないようです。
   東光寺は、南北朝時代には関東十刹の一となり、承和3年(西暦1347年)当寺住持の月山友桂が利生塔を造立、この塔は他国の利生塔の例から見て五重塔であった公算が大きいとされています。
   
東光寺跡は「利生塔建設の寺」として復興されるのではなく、明治の王政復古により護良親王の追悼の神社・鎌倉宮に変わってしまいました。鎌倉宮は東光寺跡に建っていることは確かですが、東光寺にまつわるものは一切無く、「跡」を示すものも無いということです。>>>More

 

>>>Top          >>>Home


                                               <報国寺>

   山号は功臣山、臨済宗建長寺派の禅宗寺院です。開基は足利家時、開山が夢想国師の兄弟子の天岸慧広(仏乗禅師)で、建武1年(西暦1334年)の創建と伝えられていますが、上杉重兼の開基ともいわれています。
   
三門をくぐり右側の石段を登ると、本尊の釈迦如来坐像(市重文)が祀られている本堂があり、本堂の右手に迦葉堂、左手にはかやぶきの鐘楼があります。寺には数多くの文化財がありますが、殆どは現在、鎌倉国宝館に所蔵されています。
   報国寺については、永享10年(西暦1437年)から翌年にかけて起きた永享の乱で、敗退した関東公方足利持氏が、永安寺で自刃した時、長子の義久がこの寺に入って自刃したという話が残っています。
   永享の乱は、鎌倉公方足利持氏関東管領上杉憲実の対立に際して、室町幕府6代将軍義教が、篠川御所足利満直駿河国守護今川範忠に憲実の救援を命じ、さらに上杉持房上杉教朝ら幕軍を派遣し持氏を誅した事件です。
   その後、室町幕府は衰退し、将軍の後継者選びは管領たちによる話し合いと言う義教が一番嫌った形によって行われることになり、やがては,応仁元年(西暦1467年)から勃発した応仁の乱につながり、130年続く戦国時代は、ここに始まったと言えます。
   報国寺は、鎌倉駅から徒歩で25分、または、バスに乗るなど、ちょっと交通の便は悪いですが、本堂の裏手に見事な竹林があり「竹の寺」として有名で、時間をかけてでも行く価値は十分にあると思います。>>>More

 

>>>Top          >>>Home


                                                                  <明王院>

   明王院は真言宗御室派の寺。この寺の創建は嘉禎元年(西暦1235年)で、開山である鶴岡八幡宮別当・阿闍梨定豪によって盛大に行われました。
   発願者は四代将軍・藤原頼経で、建立地の十二所は政所から見て鬼門の方位であったため、鎌倉の安泰を願って、鬼門よけとして五大明王を祭る寺として建てられました。
   
特に、鎌倉から室町まで祈願寺として重んじられ、元寇の際には異国降伏祈願が行われました。
   異国降伏祈願は、公家を中心に専ら京都で祈が行われ、ことに文永の役の結末が、神明の冥助である逆風によってつけられたと信じられていました。幕府もまたこれに同調して、同月執権時宗の従兄弟に当る法印頼助に、鎌倉佐々目坊で尊勝法を七ヵ日修すべきことを命じています。
   
その後、特に神仏への敵国降伏の祈願が、熱誠をこめて続けられるようになりました。神仏の擁護のある神国日本の信念は、次第に鞏固になり、建冶年間頃から春日・日吉社の如き屈指の大社は、朝命によって、月別に異国降伏の祈願を分担したようです。(興福寺略年代記・門葉記)

   明王院のある所は、現在も鎌倉市内でものどかな雰囲気が漂っていおり、近くには、「源頼朝卿四代将軍源頼経卿御建立地」と文字の刻ざまれた貴重な一群の石塔が立ってます。>>>More

 

>>>Top          >>>Home


                                            <来迎寺(西御門)>

   鎌倉には来迎寺という名前の寺は二つあります。材木座にある真言宗能蔵寺跡と、西御門にあるの時宗の寺で、ここでご紹介する寺は、西御門にある来迎寺です。
   来迎寺(西御門)は鎌倉時代、西御門に建てられた多くの寺のなかで唯一残っている寺で、時宗の開祖である一遍上人が永仁元年(西暦1293年)に建立した寺と云われています。しかし、一向上人とも云われており、寺史には不明な点が多くあります。
   
西御門の地名は、鎌倉時代初期、鎌倉幕府の重臣が邸を構えた大蔵幕府や頼朝が葬られた法華堂の西にあったため名付けられたと云われています。
   本堂内には、如意輪観音像、地蔵菩薩像、抜陀婆羅尊者像の3つの有名な彫刻があり、如意輪観音像は光福寺、法華堂、さらに来迎寺と転々と移された仏像です。半跏の姿勢で6本の手をもち、温和な表情に複雑な衣文など南北朝期の特色をもつ仏像で、土紋装飾があります。
   地蔵菩薩像は、衣の裾が台座に垂れる写実的な宋風様式で、高僧の肖像を思わせる作風です。また、この仏像は南北朝期に開山し現在は廃寺となった、西御門の報恩寺の本尊であったと考えられています。
   
抜陀婆羅尊者像は、報恩寺(廃寺)にあったもので、江戸時代には法華堂にあって江の島「稚児が淵伝説」の主人公ともいわれてきました。この話は建長寺・広徳庵の自休蔵主と鶴岡八幡宮・相応院の白菊という稚児の投身にまつわる話です。俗に「自休さま」とよばれる作例の少ない仏像で、この仏像に祈ると足腰の痛みが去るといわれています。>>>More

 
>>>Top          >>>Home


                                                                <理智光寺跡>

   理智光寺の正式名称は、五峯山理智光寺といい、開山は願行房憲静で、南北朝の頃まで理智光院といわれ、天文年間(西暦1532〜54年)には、管理を浄光明寺・慈恩院が兼務していたと云われています。
   江戸時代には、東慶寺の末寺の尼寺となり、明治初年(西暦1868年)に廃寺されると護良親王墓(御陵)となりました。
   御陵は深い緑の木立に囲まれ、静けさと夏でも涼やかな風が吹き抜ける168段の階段を登ると石造りの玉垣に囲われた扉があり (立入禁止)、更に、数十段の階段の先に石塔があるそうです。石塔は正平12年(西暦1357年)に僧友柱が建てたとの伝承があります。
   
理智光寺の本尊は、南北朝時代の木造阿弥陀如来坐像で、仏像には鎌倉地方の宋風彫刻にしか見られない、土状の素材を漆で練って雌型に入れて、形を作り、漆で像に貼り付ける装飾法である土紋彫刻が着衣部にほどこされています。また、この仏像は、胎内に小仏像を納めていることから鞘阿弥陀とも呼ばれ、現在は近くの覚園寺に保存されています。
   大塔宮護良親王は、後醍醐天皇の子で建武の中興を成し遂げた一人ですが、足利尊氏による幕府擁立を阻止しようとし、逆に、尊氏の讒言を受けて謀反人となり、足利尊氏に預けられ、弟の直義によって、現在の鎌倉宮にある土牢に幽閉されていました。
建武2年(西暦1335年)北條高時の遺児「時行」が諏訪の助けを得て蜂起し、鎌倉奪還を試みた中先代の乱で、瀬谷が原において破れた足利直義が、鎌倉を落ち延びる際に、淵野辺伊賀守義博に言いつけて親王を惨殺させました。そのとき茂みにうち捨てられた親王の首を、理知光寺の僧が拾って寺の裏山の頂上に葬り、塚を建てて供養したと云われています。>>>More
 


>>>Top          >>>Home