<大船・今泉周辺神社仏閣一覧>

                熊野神社(大船)五所稲荷神社駒形神社三十番神宮(手広)

          
山蒼稲荷神社
神明神社(台)天満宮白山神社(今泉)山崎天神(北野天神)

           圓光寺
大船観音寺玉泉寺久成寺西念寺昌清院常楽寺称名寺泉光院

                     大慶寺大長寺多聞院貞宗寺東光寺等覚寺龍寶寺


                    <非公開の仏像や撮影禁止場所の写真は鎌倉シニア通信のお寺さんより引用しています>

                                            このホームページに掲載されている資料を使われる方はご連絡下さい。
                                                                                          
<問い合わせ先>




                                                             <熊野神社(大船)>

   大船駅から常楽寺経由鎌倉湖畔循環バスで常楽寺下車、徒歩5分のところに、多聞院という真言宗大覚寺派お寺があり、その入り口横の鳥居をくぐり、急な石段を登ると山腹に社殿が鎮座し、祭神として日本武尊が祀られています。明治期の神仏分離までは、隣接する真言宗寺院の多聞院が長らく別当を務めていたそうです。
   熊野神社は、熊野三山より熊野権現の勧請を受けた神社で、同名または類似の社名の神社が全国各地にあり、鎌倉でも極楽寺、手広(青蓮寺)、浄明寺、朝比奈などに熊野神社があります。
   
この熊野神社は、大船の鎮守で、御神体は束帯姿の木像で、その台座に天正7年(西暦1579年)甘糟長俊・勧請の銘があります。『相模風土記』によれば、甘糟長俊が、正親町天皇の束帯姿の木像御座像を勧請して祀ったと云われ、木像は今も御神体として祀られています。境内には舞殿、金刀比羅宮(崇徳天皇)、神明社(天照大神)もあり、金刀比羅宮は、安永9年(西暦1780年)に地頭の長山氏勧請したようです。
   甘糟氏は相模平氏の一族で、「吾妻鏡」よれば、「元暦元年(西暦184年)武蔵国住人甘糟野次広忠は、西海に赴いて平家を追討する旨を願い出たので、源頼朝は感激してその知行の萬雑公事を免じた」旨が記されていおり、承久の乱宇治川合戦ではその一族と思われる甘糟小次郎が勲功の交名に名を連ねています。
   
甘糟長俊は、更に時代は下って室町時代に上杉家に仕え、後に小田原北条氏に仕えた甘糟家の太郎左右衛門尉平長俊で、大永6年(西暦1526年)房総から里見義弘が乱入したとき、玉縄城主北条氏時とともに応戦し、敵に取られた首を埋葬した玉縄首塚は、後に甘糟首塚ともいわれるほど勇名を馳せたといわれています。>>>More

 
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                                             <五社稲荷神社>

   五社稲荷神社は、五社明神または五所の宮とも呼ばれ、建久年間(西暦1190〜980年)に岩瀬与一太郎が建立したと伝えられています。社名は御祭神が保食神、倉稲魂神、大己貴神、大宮姫神、大田田根子命の5柱であることからきています。
   岩瀬与一太郎は、元佐竹の家人でしたが、源頼朝が常陸国の佐竹氏を滅ぼしたとき捕らえられ「佐竹氏は源氏の一族なのに、なぜ滅ぼすのか。私は抗議するためにわざと捕まった」と言ったと伝えられています。頼朝はその与一の勇気と忠誠心に感動し、岩瀬与一太郎と名乗らせ、御家人の列に加えて当地を治めさせたと云います。岩瀬の地名は岩瀬与一太郎に因んで附けられたそうです。
   
『新編相模風土記稿』には、鶴岡八幡宮職掌坂井越後が神職を兼ねたと記されており、天明2年(西暦1782年)の天明の大飢饉の際に、栗田源佐衛門が祈願のために社殿を再建したことが棟札に書かれています。その後、明治初期に村社に列せられたようです。
   ここの稲荷神社には狐を祭っていません。元々稲荷神社は、決して狐を祭ったものではなく、狐は主流でない豊川稲荷の祭主である中国の仏が狐に乗ってきたということからイナリと結びつきができたようです。
   
稲荷神社の御祭神は、字迦之御魂神(倉稲魂神)で、五穀を始めとして全ての食物をつかさどり、稲の成育を守護する神さまてす。稲荷とは、元々「稲成」、つまり稲が成育することを意味していると云われています。
   中世から近性へと、商工業が発達するに従って、従来のように農業だけではなく、衣食住と諸産業の神さまとして崇敬されるようになり、また、性病や生殖にもご利益があるとされた時代もあります。全国各地には、多くの稲荷神社がありますが、そのほとんどは京都の伏見にある伏見稲荷大社から分かれたものだそうです。>>>More

 
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                                                      <駒形神社>


   湘南モノレール「湘南深沢」駅から徒歩5分、自然が多く残る鎌倉市寺分の一角に駒形神社があります。寺分の鎮守で、祭神は駒形大神、治承年間(西暦1177〜81年)大庭景親が、天候不順が止むよう代参を遣わし、祈願したと云われている由緒ある神社です。
   地元では古くから邇々芸命(ににぎのみこと)を祀ると伝えられてきました。農業の守護神して崇められ、大正時代までは、正月に初穂を串に挟み神前に捧げる儀式が行われていました。
   
『相模風土記』ではかつては東光寺の管理下にあったことが記されており、本殿は天保14年(西暦1843年)に再建されたものです。境内の一角には、富士信仰の名残を示す富士浅間神社の角塔や、境内のやぐらに、文政5年(西暦1822年)に造られた弁財天像が祀られています。
   駒形という社名をもつ神社は、東北から関東にかけて多く、本源とされるのは、岩手県水沢市にあり、祭神の駒形大神はの守護神で、馬頭観音あるいは大日如来と習合し、東日本各地に勧請されて「おこま様」と呼ばれています。馬の守護神とされたのは、古代、この一帯が軍馬の産地であったためと考えられています。
   
創建の年代は不詳ですが、社伝では、雄略天皇21年に、京都籠神社から宇賀御魂大神を勧請して奥宮へ祀り、里宮に大宜津比売神事代主神を配祀したと伝えられていおり、また、景行天皇40年、東征中の日本武尊天照大神・置瀬命・彦火々出見尊天常立尊・吾勝尊・国狭槌命を勧請して創建したとする伝承もありが、倭の五王時代より以前(西暦480年以前)のことで、正確なことは不明です。>>>More

 
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                                           <三十番神宮(手広)>

   三十番神宮は、県道藤沢−鎌倉線の手広バス停を程藤沢方面に行き、左にある細い路地を入って行った所にあります。
   小田原・北条氏の家臣であった「嶋村釆女氏」が、晩年津に移り住んだ時、笛田の日蓮宗「佛行寺」を別当寺として、隠居所の守護神として祀ったのが始まりと云われています。
   鎌倉こども風土記によると、明治八年(西暦1875年)ごろ、神仏分離により取り壊されそうになったので、嶋村家の稲荷祠を遷座し、これは稲荷神社であると届出たことで取り壊しを免れたと言います。以来、稲荷神社として守られ、法人登録も「稲荷神社」となっているため、公式には、三十番神宮は無いことになっています。しかし、鎌倉市史では、手広の稲荷神社の項に「風土記稿に見えない、安政三年の石鳥居がある。例祭には、笛田佛行寺がお経を上げに来るという。」とされており、また、新編相模国風土記稿には稲荷神社はないが、青蓮寺の塔頭「宝積院」の境内祠堂記載末尾に「番神堂笛田佛行寺持ち」と記されており、三十番神宮が本当の呼称なのでしょうか。
   
三十番神宮の祭礼は、10月9日に佛行寺住職により行われ、また、稲荷神社としての祭礼は、1月31日に岩瀬の「五社稲荷神社」の宮司によって行われるという、一つの神社で、仏式と神式の祭典がそれぞれ毎年あるという珍しい神社です。
   三十番神は、ひと月のうちに毎日交替で法華経の信仰者を守護するとされる神々の総称で、起源は平安期にさかのぼるようですが、日蓮宗では日蓮上人の弟子の時から三十番神を祭るようになったそうです。三十番神に関する文献で最も古い物は実は仏教側の日蓮聖人が書いたメモのようですが、吉田神道を興した吉田兼倶が、これはもともと占部家で考案されたものであると主張し、日蓮宗側もその主張を入れて、以後、日蓮宗と吉田神道を中心にこの信仰は広まったようです。>>>More


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                                                     <山蒼稲荷神社>

   大正11年(西暦1922年)大船駅東口一帯を、東京の田園調布に倣って、高級住宅地にするという大船田園都市構想が計画されていました。
   しかし、開発に着手した当初から事故が続いたため、地元の有志が集い、昭和5年(西暦1930年)木が鬱蒼と茂る大船の山に、稲荷神社を建てて山蒼稲荷神社と命名し祈願したところ、災厄が治ったそうです。その後、山蒼稲荷神社は、昭和9年(西暦1934年)松竹映画の大船進出で撮影所ができたのとあわせ、山から現在の場所に移されと云われています。
大船田園都市構想は、大船駅から旧松竹撮影所あたりまでを、大田区田園調布と同じような、同心円とマス目を組み合わせた住宅地にする計画で、当時イギリスで生れていた田園都市構想に倣って、一面の田んぼと湿地の大船の地に「大船田園都市株式会社」を興し、「新鎌倉」として開発、大正11年(西暦1922年)から分譲を開始しました。
   計画面積は10万坪、レンガ敷きの碁盤目の道路、上下水道、病院、公園などが整備されるという、当時としては先進的な構想の町づくりでしたが、関東大震災、昭和初期の不景気などでこの計画は頓挫しました。
   現在では、市指定景観重要建築物の洋館「小池邸」など3棟、横須賀線下り線の「田園踏切」、他に田園眼科、田園薬局、田園印刷の名だけが当時の俤を残すのみです。
   大船にこのような田園都市構想が生れた理由は、明治21年に横須賀線が開業、翌年に新橋〜神戸の東海道線が全通、全通初日の急行停車駅が、横浜、大船、静岡、名古屋、京都の5駅だけと、一寒村に生れた大船駅が軍港・横須賀への陸路の要衝だったことから、破格の扱いを受けたこともあったようです。>>>More

 
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                                                                 <神明神社>

   神明神社は、小袋谷のJR横須賀線の踏み切りから少し入った山崎小学校へ向かったところの高台にあります。
   この神社の創建は戦国時代の元亀年間(西暦1570〜3年)と云われていますが、勧請の年月は不明です。社伝によると、このころ山ノ内荘に疫病が流行したために、天照大神を勧請し、疫病退散を祈ったそうです。
   祭神は、天照大神を主祭神に、蛭子之命・須佐男命・市杵比売命で本殿・拝殿・末社三社・神輿庫などがあり、社殿は慶安元年(西暦1648年)の大地震の際に、神燈の火により炎上、承応3年(西暦1654年)に再建、嘉永7年(西暦1854年)に改築されたと伝えています。
   
その後、大正9年(西暦1920年)、無格社の淡島社・第六天社・諏訪神社を合祀し、最近、石段や石垣などの修理を行い、現在の形になっています。
   神明神社の祭神、天照大神は、太陽を神格化した神であり、古代においては皇室の氏神として一般には祀ることは禁じられていましたが、中世以降、農耕儀礼と密接に結びつき広く信仰を集め、特に、近世にはいると、一般民衆の間にも伊勢信仰が盛んになり、新田開発の際に神明神社を創建することが盛んになったと云われています。
   神社の石段上り口の左に、万延元年(西暦1860年)の銘が刻まれた庚申塔があります。この年は、庚申の年で、山ノ内村一帯は凶作のため、領主円覚寺から救米・貸渡金を受け、家業出精・倹約を命じられた中で、将来の豊作を祈り、血の滲む思いで造立したのではないしょうか。>>>More

 
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                                               天満宮

   
大船からモノレールで「湘南深沢」下車、少し大船側に歩いたところで左折し直進すると上町屋天神があります。境内の奥には、正徳2年(西暦1712年)と刻まれた菅公像があり、並んで市指定文化財である寛文10年(西暦1670年)と刻まれた三猿庚申塔が立っています。
   祭神は勿論菅原道真公ですが、創建年代は分りません。しかし、上総介平良文が霊夢により天神を祀ったのが、この神社の始まりとも言われていることから、良文が、何か道真が大宰府に流された事件に加担したため、亡くなった菅原道真の怨霊が良文にまで及び、急ぎ天神を祀ったことかもしれません。そうすると、創立の時期は道真の死の年、延喜3年(西暦903年)から良文の死の年、天暦6年(西暦952年)の間と推定されます。
   この天満宮は、別名洲崎神社と呼ばれています。洲崎の地は鎌倉幕府が滅亡するとき、倒幕を目指す新田義貞軍と、幕府軍側の赤橋守時軍が戦った古戦場跡で、『太平記』には、新田軍と北条軍が、一晩に65度も切り合い、北条方数万の兵は、朝までに300になったと語られています。今も、天満宮の近くには、供養のための小型道祖神、双体道祖神、大型石祠など路傍に石仏群や石塔が数多く並んでおり、その一つに心霊スポットとしても知られ、夏の夜には肝試しに訪れる者も多い、泣塔と呼ばれる宝篋印塔が立っています。
   泣塔は、別名陣出の泣塔とも云われ、州崎の戦いで戦死した死傷者を弔う為に二十三忌に室町幕府が供養塔として、文和5年(西暦1356年)に建立されました。>>>More

 
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<白山神社(今泉)>

   白山神社は、菊理姫之命を祭神とする今泉の氏神社で、もとは毘沙門堂と呼ばれた歴史の古い神社です。社伝によると源頼朝が建久元年(西暦1190年)に創建したと伝えられ、京都へ上洛の際、鞍馬寺からもらいうけ、鎌倉幕府の北の守護神としてまつられたという毘沙門天立像が納められています。
   
本殿の前にかけられている大きなしめ縄は、ここに住む守護神である大百足をあらわしたものと伝えられ、毎年1月8日の大注連祭には、毘沙門天様のお使いであるムカデ(百足)を模した注連縄を地域住民が力を合わせ作り、境内の入り口に掲げ地域の安全と豊穣を祈願するということです。冬の寒さ厳しい早朝から、境内横の広場で世代を超えた男衆が藁からムカデの足を作り、また全長6メートルを越すムカデの胴体を作り上げます。その工程は村の古老から若い世代に受け継がれ、お祭りに集う地域住民の中で絶えることが無い文化の伝承作業でもあるようです。
   のどかな山を背にした白山神社は、もとは毘沙門堂とよばれていましたが、神仏分離令によって明治以後、白山社・弁天社・八幡社を合わせて白山神社となりました
   
毘沙門堂に安置されている毘沙門天像は行基の作と伝わっており、台座に「享禄5年(西暦1532年)」の修理銘があったといわれ、現在は、「宝永4年(西暦1707年)」の修理銘が見られます。毘沙門天には両脇侍立像が仕えており、共に室町時代の作とみられ、鎌倉・最古の毘沙門天といわれています>>>More

 
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                                                  <山崎天神(北野神社)>

   神社の起こりは、歴応年間(西暦1338〜42年)に、夢窓国師が円覚寺から南西にあたる天神山に、京都の北野天満宮を迎えたものだと言われています。
   夢窓国師は天満宮とともに宝積寺という寺も建て、北野天神と宝積寺を神仏混淆として一緒に奉り、江戸時代には村の鎮守として村人たちに親しまれてきましたが、明治元年(西暦1868年)の神仏分離令により、山崎天神の本地仏として奉られていた本尊十一面観音は、近くの清昌院に移されました。
   
神社は、貞治元年(西暦1362年)円覚寺塔頭黄梅院主が再建、文化8年にも再建され、慶応2年の修造を経て、菅原道真没後1000年に当たる明治35年(西暦1902年)には神殿を修復して盛大な式典が行われました。
   山崎天神社が建てられた頃は、神田や寺領は広範囲に及んで隆盛を極め、鎌倉時代から室町時代にかけては、尾根伝いの道が鎌倉の中心部に通じている要衝の地であったことから山城の砦としての役割も担っていたようです。しかし、西方の玉縄城の盛んになった戦国時代には、神田、寺領ともほとんどなくなったと云われています。
   
天神山の東側は遠く原始時代の住居跡らしく縄文式土器・弥生式土器・土師器等が散在しており、境内にある市指定文化財の宝篋印塔は、塔の上の相輪部を取ると笠部の中心にへこみがあり、そこにたまる水を目につけると眼病が治ると言われていますが、衛生的に問題があるのではないでしょうか。拝殿には牛頭天王を祭った神輿があります。>>>More

 
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                                                                   圓光寺

   正式には、城護山明王院圓光寺と号し、開山は澄範、開基は北条氏時の真言宗のお寺で、山号の通り玉縄城の平安を祈願するために、城護山と名が付けられたと云われています。
   植木という地名は、玉縄城の防衛の為に多くの木を植え、樹木を繁茂させたことからこの地名になったとも伝えられています。
   
本堂には扁額がかかり、本尊の不動明王像のほか、月光菩薩、弁財天、弘法大師、阿弥陀如来、北条氏時が作らせたと云われる毘沙門天像などが、薬師堂には、行基作と伝えられる薬師如来像や十二神将像が祀られています。薬師堂の諸仏は、平素は非公開で、60年に一度開帳されるそうです。
   寺のあった玉縄城は、永正10年(西暦1513年)に北条早雲によって築城された平山城(丘城)で、初代城主北条氏時・2代北条為昌の後、玉縄北条氏が治め、徳川家康が幕府を開いた後も本多氏、水野氏、松平氏が城主として入城していました。
   しかし、その後、徳川幕府の政策により、元和5年(西暦1619年)に廃城となり、玉縄城内にあった圓光寺は、現在の場所に移されたそうです。
   城そのものは鎌倉時代より存在したようですが、永正9年(西暦1512年)相模制覇を目指し三浦一族と抗争を進める北条早雲によって小田原城の出城として整えられ、三浦氏滅亡の後も、玉縄城は北条氏の重要な拠点として機能し続けました。
   
三代目城主は、二代城主北条北条為昌(氏綱の三男)が早くに亡くなったため、人物を見込まれて北条氏綱の娘婿となった福島(くしま)氏の綱成が三代目の城主として入り、以来、玉縄城は綱成の子に受け継がれ、その後は「玉縄北条氏」とも称されています。>>>More
 
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                                              大船観音寺

   原爆が投下されて61年、東西冷戦が終結した後、幾つかの国が核兵器の開発・保有に走り、テロリストが核兵器を使う事態さえ心配な時代になって、広島、長崎に次ぐ被爆地が生まれる恐れはまったく薄らいでおらず、我国は唯一の被爆国として声を上げ続けなければならないと思います。
   鎌倉の入口、大船の駅から望むことの出来る、白衣の観音様の境内に、その思いを託した大船観音原爆の火の塔が建立されていることは、以外と知られていません。
   大船観音寺は、曹洞宗大本山總持寺の末寺で、巨大観音像(大船観音)で知られています。白衣をまとった観音像は、高さ25.39m、幅18.57m、重さ1915tの大きな胸像で、頭上には化仏といわれる阿弥陀如来像をのせ、胸に瓔珞(ろうらく)とよばれるかざりを付け、額の中央にある黒子のようなものは、白毫(びゃくごう)とよばれ、光明の世界を照らすといわれています。
   
大船観音は昭和4年(西暦1929)、地元有志の発起により護国観音として築造が開始され、昭和9年(西暦1934)には輪郭が出来上がっていました。その後、戦局の悪化により築造は中断され、20年以上放置されてきましたが、第二次世界大戦後の昭和35年(西暦1960)4月に完成しました。
   
原爆記念碑は、昭和41年(西暦1966年)に結成された「神奈川県原爆被災者の会」によって、被爆25周年の記念行事として、原爆犠牲者の慰霊碑建立の計画が立てられ、大船観音の境内に建立することになりました。
   慰霊碑は、正面が西方の広島、長崎、ビキニの方を向き、周囲の放射状模様は原水爆禁止のシンボルを、土台石は三つの原水爆投下を、その上に乗った湾曲した部分は、礎石を橇で運んだ様子を表しております。
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                                               <玉泉寺>

   玉泉寺は江戸時代の初期(西暦1616年)に没した一歩沙弥とも称した小林若狭という人物が開いたといわれ、背後に聖天の祠があったことから、聖天山歓喜院玉泉寺と号す真言宗大覚寺派のお寺です。参道を入って境内の正面に本堂があり、右手には弘法大師の立像が祀られています。寺地はもと若狭の宅地であったと云われ、若狭の父とその部下一族数十名の墓所などがあります。
   
本尊の不動明王像は、胎内にもう一つ小さなお不動様を抱えているのが特色で、胎内の小さなお不動様は、鎌倉時代に願行上人が作ったもので、胎内不動と呼ばれています。この不動明王は秘仏として正月三が日だけ開帳されます。
   また、境内の墓地には「よくばり地蔵さん」があり、このお地蔵さんは、願い事がある時は、七日間、毎日六つ、かなったら七日七つ、団子を供えると願いが叶うとのことです。四十二は厄年の数字、四十九は寺に納める餅の数、いずれ感謝の気持ちを忘れると祟り(たたり)があるぞという戒めから生まれた地蔵さんのようです。
   
地蔵さんの他に、境内には、優しい女性の姿をした聖観音像の石仏が立っています。天衣が長すぎたのか、先をくるりと巻いており、健康的な働く女性を供養する像であることを物語っています。
   胎内不動の作者、願行上人憲静は、建保5年(西暦1217年)に京都で生まれ、幼くして京都泉湧寺や高野山で修行し、真言宗の学僧として、学問だけで終わらせない行動派として、京都など近畿だけでなく、鎌倉をはじめとする関東にも多くの足跡を残しています。
   
特に、真言念仏・土砂加持による偉大な念仏結集の行者として、文永・弘安の元寇の難を迎えた鎌倉中期の庶民や武士の心を掴み、執権職に就いていた北条氏とも懇意な関係で、更に、大山寺中興の祖としても伝えられています。>>>More

 
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                                               <久成寺>


   県立大船フラワーセンターの正門前を通るバス道路を藤沢方面に進むとやがて上ぼり坂になります。この坂を久成寺坂と言い、坂の手前の信号を右に折れ、三門をくぐり、日蓮像を左手に見ながら石段を上がると正面奥に本堂と庫裡があります。
   正式名称は光圓山久成寺といい、徳川家康とゆかりのある日蓮宗の寺です。創建は永正17年(西暦1520年)、開基は日蓮宗の熱心な信者であった小田原北条氏の家臣の田尾張守秀長、開山は日舜上人、本尊は曼荼羅本尊、寺宝は日蓮上人像だそうです。寺の紋章は徳川幕府と関係が深いことから、葵の紋所を掲げています。
   田尾張守秀長は、日蓮宗の熱心な信者で自分の宅地を寄進して日瞬を迎えて建立したと云われています。
   新編相模国風土記稿」によると、徳川家康とのゆかりとは、四代住職日(にちがい)上人が、天下の安泰を祈って法華経3000部の読誦を行っていたところ、徳川家康が小田原攻めの際に立ち寄り、天下安泰の祈願を頼み、恩賞として3石を与えたと云う事だそうです。
   その後、徳川家康鷹狩りの折にはこの久成寺に立ち寄り、手厚く迎えた日に、三葉葵の紋のついた弁当箱を授けたという言い伝えが残っています。この弁当箱は、行厨(こうちゅう)あるいは破子(わりご)と称し、久成寺の寺宝となっていましたが、残念なことに、文政 5年(西暦1822年)の火災で伽藍が焼失し、多くの寺宝と共に失われてしまったようです。
   境内には、本堂手前左手に、長尾台から移された長尾定景とその一族の墓と言われる石塔があります。>>>More

 
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                                               西念寺

   正式の名称は、岩瀬山正定院西念寺と号し、開山は天文3年(西暦1534年)に没した運誉光道で、代々住職の言い伝えでは、元亀元年(1570年)に本堂が創建されたとされています。
   従って、開山運誉上人は、裏山の伝説の岩屋「開山修行窟」と呼ばれている横穴に住んで、念仏の布教活動に励まれていたものと思います。開山修行窟は、運誉光道が自分で掘ったものといわれていますが、実際には横穴式古墳のようです。
   西念寺は二度の火災で古い仏像が焼失しましたが、現存する仏像では本堂の「阿弥陀如来像」、客殿の「阿弥陀如来像」」、更に本堂客殿間階段踊り場の「地蔵菩薩」三体が古い仏像です。「地蔵菩薩」は、お地蔵様は人の歩くところに置くのがよいので階段に置かれています。
   本尊の阿弥陀如来像は、桃山時代の特徴を良く表している坐像で、保存状態も良好な浄土宗興隆期の典型的な如来像で、格調高く文化財としても貴重な作品と言えます。ただし台座と光背は後補と思われます。本堂のすぐ左手、裏の墓地に向かう道の左側、槙の木の後、岩壁前に5基の石塔あり、そのうちの左から2基の庚申塔があります。
   西念寺には大旦那「澤田常長」という方から田圃の寄進があり、その記念に夫妻の姿を木像で彫らせた「首抜け木像」があります。首抜け木像と言われるのは、顔を塗り替える際首が抜けるように作られているもので、塗り替えるために江戸へ持っていく必要があり、お寺の費用で江戸へ行けるため、この運搬人を選ぶため籤引までして決めたと言い伝えがあります。>>>More

 
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                                                                 <昌清院>

   昌清院は、円覚寺塔頭、如意庵の末寺で、「相模風土記」によれば、開山は如意庵八世以足徳満と云われています。しかし、同院に伝わる木造無礙妙謙座像の胎内銘には、「当院開山」と記されていますが、創建は、慶長2年(西暦1597)に円覚寺如意庵の隠居寺として建てられたようですその後、荒れ果てていたため、昭和45年に本堂が新築されています。
   昌清院の山号は、元々、長崎山、諏訪山と言われていましたが、山崎の谷戸にあることから、近年、山崎山と改められました。
   
本尊は釈迦如来、寺宝は木造地蔵菩薩、十王、奪衣婆、銅造十一面観音などで、仏像が多く納められているようです。また、本堂の天井には龍が描かれており、見る位置により光かたが変化すると云われています。
昌清院がある山崎の谷戸に関しては、鎌倉市の真中にあって化粧坂から洲崎へ抜ける古道が山の峰を通っているにもかかわらず、歴史的資料が多くありません。
   天保12年(西暦1841年)に書かれた新編相模国風土記によると、山崎と言う地名は、源頼朝の富士川の戦いに参加した山崎六郎憲家の屋敷があったことから、付けられたようです。江戸時代の領主は、奥平の女と言われ、村人達に「おとうさま」と呼ばれていたそうです。近くには、「従是江のし満道」と書いた江ノ島道道標があり、江の島参りの人々が利用した古道で上町屋から手広に繋がっており賑っていたようです。その領主の墓は、現在「お塔さま」と呼ばれ、五輪塔が1基祀られています
   『鎌倉市史 考古編』によれば、山崎には横穴墳墓と関連遺跡あり、古くからひとが住んでいたようですが、残念ながら、宅地造成などで破壊されたものもかなりあるそうです。>>>More

 

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                                               <常楽寺>

   臨済宗建長寺派の寺で、開基は鎌倉幕府三代執権北条泰時、開山山は蘭渓道隆、本尊は阿弥陀三尊です。
   『吾妻鏡』の嘉禎三年(西暦1237年)十二月十三日条によると、泰時が妻の母の追善供養のため、山ノ内(当時の山内荘)の墳墓のかたわらに一つの梵宇を建立し、退耕行勇が供養の導師をつとめたとあります。
   これが常楽寺の開創で、泰時が仁治三年(西暦1242年)六月、60歳で他界すると、この粟船御堂に葬られ、翌寛元元年の一周忌法会も同じ御堂でとり行なわれました。このとき、大阿闍梨の信濃法印道禅なる僧が導師をつとめ、北条時頼をはじめ、生前泰時公と親しかった武士や一般の人々が弔意に参じ、曼荼羅供の儀を行いました。
   建長六年(西暦1254年)の十三回忌も当寺でとり行なわれ、真言供養が巌修されていますので、草創期の当寺は密教的な要素が濃かったようです。
   記録上で、“常楽寺”の名がはじめて見えるのは、宝治二年(西暦1248年につくられた梵鐘の銘文にからで、その文中に「家君禅閣墳墓の道場」、「足催座禅の空観」とあるので、この頃には禅寺としての性格を持つ道場となっていたようです。
   
この梵鐘が造られた年、宗僧蘭渓道隆が北条時頼の招きで当寺に入り、建長寺が開堂供養されるまでの五年間、純粋な中国宋の禅風を世の人々に広めました。
   常楽寺は、JR大船駅から東側へ約1.5キロの場所にあるため、鎌倉を訪れる観光客もほとんど寄ることのない寺ですが、江ノ電バス(鎌倉駅行又は鎌倉湖畔循環)で四つ目のバス停「常楽寺前」にあります。ちょっと寄り道には不便でしょうか。
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                                               <称名寺>

   称名寺は一般にあまり知られていませんが、天園ハイキングコースの北側にあります。(但し、ハイキングコースとは直接繋がっていません)境内に修験滝のあり、鎌倉のお寺の中でも、最も自然が溢れた場所の一つと思います。
   称名寺は今泉山一心院称名寺と号し、浄土宗のお寺で、芝増上寺の末寺です。開山は空海と伝えられていますが、現在のお寺は直誉蓮入の開山で、本尊は来迎阿弥陀三尊です。境内には本堂、不動堂、弁天堂、庫裏、書院、療養所、門が残っています。
   称名寺は、もとは、弘法大師空海の創建と言われている不動堂の別当でした。「新編鎌倉志」には、当時、八宗兼学(色々の宗派が共同で修行する)の寺で、円宗寺と号していたとあります。貞享元年(西暦1684年)6月に直誉蓮入が本堂を再興し、元禄6年(西暦1693年)増上寺の末寺となり、今の山・寺号を受けています。
   
不動は寺より更に谷の奥200米程入った元不動と称する場所に在ったと言い、今は其の跡には石の不動尊が置かれています。現在の不動堂は、滝の上から急な石段を登り詰めた所に在ります。
   療養所は、滝に打たれて行をする人達のために大正4,5年(西暦1915,6年)頃に建てられたおこもり堂が、大正12年(西暦1923年)の関東大震災で崩壊したため、宮内省の下附金1万5千円で再建されたものです。脳病院の予後の人達を収容、治療をしない保護療養施設として発足し、戦争中は海軍一個小隊の駐屯地となり、仮の包帯所を経て、戦後は引揚者収容所として使われました。現在は母子家庭の宿舎となっています。
   称名寺の谷戸には滝があり、都会(鎌倉市)にこのような場所が在るのかと思う程深緑に囲まれています。しかし、石段を登り詰めた所にある不動堂の後ろは鎌倉カントリークラブゴルフコース(横浜市)と接し、谷戸の深緑と愕然とした対比が見られます。>>>More

 
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                                                                   <泉光院>

   正式名称は、天守山・高音寺・泉光院といい、一般的には院号で「泉光院」と呼ばれています。
   開山は大法師季等和尚、創建は寛永16年(西暦1639年)九月七日と伝わっています。以来、鎌倉市手広にある鎖大師・青蓮寺の末寺として、高野山真言宗に属していましたが、現在は真言宗大覚寺派に属しています。
   
境内には、山門をぬけると、正面に本堂、左に薬師堂、参道両側に向かい合って宝筺印塔と宝号塔があり、本堂前面に弘法大師修行像、右に庫裡があります。当山は大正12年(西暦1923年)の関東大震災で、本堂・山門・薬師堂が大被害を被り、昭和36年(西暦1961年)になって、まず、本堂を再建し、薬師堂は、昭和52年(西暦1977)になってから再建されました。
本尊は阿弥陀三尊仏で、中央が阿弥陀如来、両脇が観音菩薩・勢至菩薩の寄木づくりの立像です。本尊の制作時期は不詳ですが、開山が江戸時代であることと、鎌倉期の阿弥陀如来は坐像が多く、江戸期の阿弥陀如来は立像が多いことから、江戸時代に創られたと推定されます。
二基の石塔のうち、左側の宝筺印塔は宝筺印陀羅尼お経を写したものが納められたもので、安永8年(西暦1779年)に、相州鎌倉郡町屋村講中、大願主沼井源右ヱ門等が建立したとあり、右側の徳本行者真筆宝号塔は、江戸三代飢饉の一つである天保の大飢饉が少し前にあり、安政5年(西暦1858年)餓死者の供養として、内海六郎右ヱ門が近郷近在の村人に呼びかけ、浄財を集めて建立したようです。
   薬師堂には薬師如来が祀られており、毎年一月八日の初薬師の日には、その年の無事息災を祈って「大護摩供法要」が営まれています。>>>More
 
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                                               <大慶寺>

   「大慶寺はどこにあるか?」たぶん近所の方以外はまずご存知ないかと思います。場所はモノレール湘南深沢駅から徒歩7分のところで、全く観光とは無縁の寺です。
   鎌倉の寺というと、まず、建長寺や円覚寺などの鎌倉五山を思い浮かべるものと思います。しかし、この大慶寺は、関東十刹として五山に次ぐ寺格をもつ格式ある寺です。
   関東十刹の寺は、寺格の順に、瑞泉寺(鎌倉)、禅興寺(鎌倉・塔頭の明月院)、東勝寺(鎌倉・葛西ヶ谷・廃寺)、万寿寺(鎌倉・廃寺)、長楽寺(上野国)、国清寺(伊豆国)、大慶寺(鎌倉・寺分)、円福寺(陸奥国)、善福寺(由井郷・廃寺)、東光寺(鎌倉・二階堂・廃寺)で、現在、鎌倉では、瑞泉寺、禅興寺の塔頭明月院と大慶寺が残っているだけだそうです。
   大慶寺は正式には臨済宗円覚寺派霊照山大慶寺といい、開山は、大休正念(仏源禅師)、創建は弘安年間(西暦1278〜87年)とされ、本尊の釈迦如来像です。
   現在は、住宅街の中にある小さな寺ですが、鎌倉時代はかなり大きかったとみえ、円覚寺の大川道通、傑翁是英(けつおうぜえい)などの高僧が寺に入り、北条貞時の十三回忌供養にも83人の僧侶が出席したこともあったということです。
   
また、塔頭も5つあったとされ、戦国期に廃絶の憂き目に会い、住職がいない無住の時期もありましたが、唯一残った塔頭の方外庵が、現在の大慶寺して再興されたそうです。付近には、「指月軒」、「覚華庵」、「天台庵」、「大堂庵」などのかつての塔頭の名前や「鐘撞き堂」など寺の建物の名前がそのまま地名として残っています。>>>More

 
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                                                                   <大長寺>

   正式には亀鏡山護国院大長寿寺と号し、天文17年(西暦1548年)に創建された浄土宗の寺院でで、開山は感誉存貞、中興開山は暁誉源栄、開基は北条綱成です。
   寺号は元「大頂寺」と云ったそうですが、徳川家康の寄進状に「大長寺」とあったためそれから今の寺名に変わりました。
   
元の寺号「大頂寺」は、開基である玉縄城主北条綱成の奥方の戒名が「大頂院殿」というところからきていますが、徳川家康が「山号」が『亀鏡山』なら「寺名」は『大長寺』が似合う」といって寄進状に「大長寺」と書いたことから改まったと伝えられています。
   豊臣秀吉の小田原攻めの際、玉縄城は徳川の軍勢で包囲され、この近くも徳川勢の現地調達で食料などが召し上げられ、農民が困っていたのを、中興の祖である4代住職暁誉源栄が岡崎の松平家菩提寺「大樹寺」で修行をしてい縁から徳川家康とは顔見知りであったため、地元住民と嘆願に出かけ、「非戦闘員の家を荒らしてはならない」という触書をもらうことに成功したとのことです。
   
その後、徳川家康が江戸に移った後も、徳川家康に会いに行くなどの交流が続き、徳川家が菩提寺を「増上寺」に変わった際には、徳川家康とその父松平廣忠の位牌を作り、宝蔵に安置してお祀りしているそうです。
   徳川家康から愛されたということで、お寺の門前に「下馬」の高札が認められ、境内には徳川家康お手植えの銀杏の木もあります。
   本堂は、明治15年(西暦1882年)12月、近所の餅つきの火が茅葺の屋根に燃え移って類焼し、明治43年(西暦1910年)9月に再建されました。
   
本尊の阿弥陀如来像は、室町時代の作ですが両脇侍は明治の作です。本堂焼失の際、本尊だけ避難させるのに精一杯だったようです。>>>More

 
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                                                       <多聞院>

   当初は観蓮寺と云い、山ノ内にあったものを現在地に移築して改名したそうで、正式名称は天衛山福寿寺多聞院と号し、そばの熊野神社の別当職を兼ねたとされています。
   開創は文明年間(西暦1469〜87年)、開山は南介僧都と伝えられる真言宗大覚寺派の建物の外観が美しいお寺で、本尊は多聞天(毘沙門天)、その他に牛頭天王木像、岡野観音、弘法大師像、聖観音像、地蔵像、薬師如来像なども安置されています。
   本堂前には立派な紅梅の木があり、門前の右手には庚申塔、念仏塔、地蔵尊の石塔があります。
   
多聞院に向かって左手にトンネルがあり、このトンネルの手前に、人が一人通れる位の細い道が左に伸び、すぐに美しい切通しの道が現れます。この切通しの道は、トンネルの上を通り、200メートル程で大船高校のグラウンドに突き当たり、由比ガ浜、材木座海岸が見下ろせる鎌倉六国見山ハイキングコースの入口へと続いています。
   牛頭天王木像は、山ノ内の八雲神社の祭神として 多聞院となる前の観蓮寺で一緒に祀られていたものと云われています。
   
岡野観音は、十一面観音で、鎌倉の由井(比)の長者、染屋太郎時忠の3歳の娘が鷲にさらわれて食べられ、岡野のあたりに骨が散っていたので、時忠が骨を納めて観音を造立させ、後に運慶が造り直したという伝説があります。
   庚申塔はそれぞれ上辺に日月、下辺に三猿が彫られた、顔の部分が欠損した六手の青面金剛像、四手の青面金剛像、邪鬼を踏んで立つ六手の青面金剛像3基ありますが、記録では4基とあったようです。4基目は、資料には「青面金剛像を付けるが風化がひどく詳細は不明」と記されているようです。>>>More

 
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                                               <貞宗寺>

   正式には玉縄山珠光院貞宗寺と称し、徳川家二代将軍秀忠の祖母、貞宗院(家康の寵愛を受けたお愛の方の実母)が大長寺四世源栄に帰依、「没後は自分の住んでいた家を寺に」との遺言に従って、慶長14年(1西暦1609年)源栄を開山に六長寺の末寺として創建されました。
   その後、大長寺より願書が届き、徳川二代将軍から十四代将軍までの位牌が安置され、三つ葉葵の由緒あるお寺ということで、芝増上寺直系の末寺となりました。以来、歴代将軍の命日には位牌を作り法要を営んでいるそうです。
   場所はJR大船駅西口(大船観音側)に降り、大船フラワーセンターを目指して進み、フラワーセンター正門前を藤沢の遊行寺方向に歩くと、約20分ほどで着きます。
   
往時の建物は、関東大震災によって山門土蔵庫裏本堂などが倒壊し、大震災以前の建物は長屋門のみで、本堂は、後年、再建されました。
   お寺は山懐の緑濃い樹木と竹林に囲まれた、ひっそりとした静かな立住まいで、2月には白梅と水仙の花が咲き誇り、また、イトヒバ、キャラボクや大きな銀杏の木があります。特に、キャラボクは長年お寺の消長を見守ってきた古木で「鎌倉と三浦半島の古木・名木50選」に選ばれているといいます。
   貞宗寺は寺子屋として、近郷の子弟教育や、勉学に心ある者に論語・仏教や儒教の書、読み書き、算盤などを教えたといい、明治6年(西暦1873年)学制発布にともない、境内にあった寺小屋は「玉縄学校」(後の鎌倉市立玉縄小学校)と呼ばれる小学校となったそうです。>>>More

 
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                                                <東光寺>

   鎌倉で東光寺と言えば、鎌倉宮の立っている場所にあった東光寺(跡)の方が有名ですが、今回は、やはり現存しているお寺を優先し、今は無きお寺は又の機会することにしたいと思います。
   東光寺は、正式には天照山薬王院東光寺と言われ、創建、開山は定かではありませんが、元々は青蓮寺の末寺でしたが、現在は高野山の宝寿院の末寺になっています。
   昔は隣接の大慶寺が東側にあり、このあたりには僧が生活する指月軒・覚華庵・天台庵・大堂庵等々と称する庵があり、その一人である高野山慈眼院法印霊範が、永享3年(西暦1431年)隠居所として中興したと伝えられています。
   鎌倉事典(白井永二編:東京堂出版)によれば、「中興というからには前身があるべきで、いまの本尊は不動明王だが寺名からいっても(薬王院という院号から推察されたか)もとは薬師如来を本尊にしていたに違いなく、案外古いお寺かもしれない」とあります。
   場所は、鎌倉市寺分と言う湘南モノレール深沢駅から徒歩5分ぐらいの所で、「相模国準四国八十八ヶ所第十三番札所」とされ、本堂裏の山腹には「やぐら」のような洞窟があります。昔、土葬の時代に不幸にも病死された方々を洞窟内で火葬にしたと言われ、その遺跡として洞窟内には、釜場あとの穴があります。
   本尊は不動明王、寺宝は弘法大師修行像、相模国十三番札所の弘法大師坐像で、山門を入ると、右に本堂、本堂前に弘法大師修行像、その奥に相模国十三番札所の弘法大師坐像があり、六地蔵も安置されています>>>More

 
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                                                <等覚寺

   山号を休場山と称し、高野山真言宗で応永年間(西暦1394〜1428年)秀恵僧都の創建といわれ、本尊は不動明王です。
   山門を入ると、正面に本堂、右に文政三年(西暦1820年)「四国八十八ヶ所之内第弐十壱番所阿州大龍寺之写し」のお大師様があり、六地蔵も安置されています。

   本四国の遍路が困難だった時代、弘法大師への信仰から寒川、茅ヶ崎、藤沢、鎌倉あたりに四国八十八ヶ所札所の寺院名・土地名や、何らか似ている場所を選び四国八十八ヶ所の写しの番号とし、文政三年(西暦1820年)に弘法大師を安置したそうで、この寺は、「相模国準四国八十八ヶ所第二十一番札所」となっています。
   春秋のお彼岸前後には、この地方の人々50〜60人が集まり、今回は寒川、茅ヶ崎方面、次回は藤沢、鎌倉と各寺院の大師堂に安置された弘法大師石像をお参りし、近くの湯小屋で昼食をしたりご詠歌を歌って楽しく過ごしたようで、それが当時の春秋の楽しみなレクレーションであったようです。
   境内には、明治六年に建てられ、明治八年に梶原学校と改名された市立深沢小学校の前身である寺小屋「訓蒙学舎」があったそうです。領地は、梶原の「御霊神社」あたりから、小学校裏のあたりにかけた一帯で、昔は訓蒙学舎のあたりにお寺があったとも云われています。学校裏にあるやぐらには、頼朝の死後、鎌倉を追われ、京都に逃れる途中、駿河の清見関で地元の武士に襲われ一族が死んだ梶原一族の供養塔もあります。一族の墓は、清見関近くの山にある石塔だと云われており、また、本堂右奥には新田義貞鎌倉攻めで亡くなった人たちの無縁塔があります。
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                                                <龍寶寺>

   正式名は陽谷山龍寶寺で、鎌倉では寺院数が少ない「曹洞宗」の代表的なお寺です。場所も北鎌倉〜鎌倉にかけてではなく、大船駅から見える観音様の裏手になります。
   開山は泰絮宗榮大和尚、開基は玉縄城主北條綱成で、他のお寺の創建より遅い、戦国時代に小田原城を中心に関東一帯に勢力を張った後北条の一族の手になります。
   この寺のはじまりは、玉縄城2代目城主北条綱成が文亀3年(西暦1503年)に建てた瑞光院で、天正3年(西暦1575年)玉縄城4代目城主北条氏勝が3代目城主氏繁を弔うため現在の地に移し、氏繁の戒名から寺名を「龍寺」として建立、以後、玉縄北条氏の菩堤寺として栄えました。
   昭和26年(西暦1951年)火災にあい、山門と鐘楼だけは焼け残りましたが、その殆どが焼けてしまい、本堂などは昭和34年(西暦1959年)に再建されました。
   境内には国の重要文化財に認定された旧石井家住宅があります。石井家は後北条時代の地侍の出で、近世には名主をつとめたと伝えられる上層の農家です。外廻りは庇(ひさし)や縁をまったくもうけず、大部分を土壁とした閉鎖的な構えです。住宅は鎌倉から甲州に至る甲州街道筋である鎌倉市関谷にあったもので、17世紀末頃の建築と考えられます。
   
構造は「ひろま」の奥に2部屋が配される三間取り平面で、古民家の中でも年代の古い代表的遺構の一つで、この住宅は神奈川県下に例の多い「三間取り四方下家造り」の農家の典型といわれています。>>>More

 
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