<由比ガ浜・長谷周辺神社仏閣一覧>

                                                  五所神社元八幡

              
安国論寺
安養院延命寺大宝寺九品寺啓運寺向福寺光明寺上行寺

                   
実相寺千手院長勝寺辻の薬師堂別願寺補陀洛寺曼荼羅堂跡

                      妙長寺
本興寺妙法寺来迎寺(材木座)
蓮乗院

                   <非公開の仏像や撮影禁止場所の写真は鎌倉シニア通信のお寺さんより引用しています>

                                                   このホームページに掲載されている資料を使われる方はご連絡下さい。
                                                                                                         <問い合わせ先>




                                               <五所神社>

   五所神社の鎮座地は、古くは乱橋村と材木座村とに分かれており、乱橋村には三島神社、八雲神社、金刀比羅社の三社が鎮座し、材木座村には諏訪社と視女八坂社の二社が鎮座していました。
   相模風土記稿には「三島社村持」とあり、村の中心的社であったため、明治6年(西暦1873年)村社に列格され、その後、明治41年(西暦1908年)、乱橋村と材木座村が合併した際、元々あった三島神社に八雲神社、諏訪神社、視女社、金毘羅宮を合祀し、以来、五所神社と呼ばれるようになったそうです。
   境内には鎌倉市指定有形民俗資料となっている唐申塔13基や摩利支天像があるほか、感応寺にあったものだといわれる鎌倉時代の板碑があります。
   板碑には弘長2年(西暦1262年)の銘があり、ほぼ完全な姿で残った鎌倉期板碑の標本として、国の重要美術品に指定されています。
   現在の五所神社例祭は、毎年6月の第2日曜日に行われ、材木座海岸から海上を渡御することで有名です。3基の御神輿が材木座海岸を目指し、一番神輿は白装束に烏帽子で身を固めた宮司や氏子達が古来伝わる「天王唄」唄いながら、残り2基は山車から響き渡る御囃子の調子に合わせて街中を練り歩き、海岸に到着すると、一番神輿を残して2基が海へと入っていきます。
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                                             <元八幡神社>

   元八幡(由比若宮)は、源頼義が、子の源義家と、永承6年(西暦1051年)〜康平年(西暦1062年)の「前九年の役」で奥州の豪族・安倍氏との戦いに臨んで、源氏の氏神である京都の岩清水八幡宮に戦勝祈願を行い、勝利したお礼として、役を平定した翌年の康平6年(西暦1063年)に、由比の地(由比郷)に京都・岩清水八幡宮を移し、祀ったといわれています。その後、承暦5年2月に、頼義の子、源義家が永保3年(西暦1083年)〜応徳4年(西暦1087年)の後三年の役で奥州へ向かう途中に参拝し、社殿の修理をしたといわれています。
   治承4年(西暦1180年)10月6日、安房から大軍を引き連れて鎌倉入りを果たした源頼朝は、源氏の守り神を祀ったこの源氏ゆかりの八幡宮を最初に訪れています。
   同年10月21日に源頼朝がこの地の八幡宮を小林郷北山に遷座(鶴岡八幡宮)しましたが、由比の地の社殿は残り、その後も祭祀は続いて現在に至っています。
   材木座は幕府が開かれる以前から源氏にとってゆかりある土地でした。平安時代に東国で平忠常の乱が起こりこれを鎮圧したのが清和源氏の流れの源頼信で、この時から既に源氏と東国武士団の関係は築かれ始めていました。源頼信は河内主に任ぜられ、その地を拠点としていて河内源氏とも呼ばれています。その地には壺井八幡宮というのがありますが、そこから近いところに応神天皇陵と伝わる御陵があったことから頼信自身何らかの影響を受け、永承元年(西暦1046年)に石清水の神前に告文を捧げています。告文は頼信の孫義家元服の翌年に奉じたもので、八幡大菩薩(応神天皇)は頼信自身の氏祖で頼信の子孫は石清水の氏子となることを定めた内容であるようです。>>>More

 
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                                             <安国論寺>

   鎌倉時代は、仏教上の革命が行われた時代で、庶民が望んだのは、「念仏さえ唱えれば救われる」のが「他力本願」の仏教でした。その一つが日蓮の開いた日蓮宗(法華宗)です。日蓮宗は「南無妙法蓮華経」と念仏さえ唱えれば救われる仏教で、現世利益を求めた点から町衆、商工業者の間に広まりました。

   鎌倉は日蓮に関するお寺や史跡が多いところですが、安国論寺はその名の通り、日蓮が立正安国論を書いたお寺です。
   鎌倉は日蓮に関するお寺や史跡が多いところですが、安国論寺はその名の通り、日蓮が立正安国論を書いたお寺です。安国論寺の山号は妙法華経山といい、創建は建長5年(西暦1253年)、鎌倉時代の初期には北条時政の屋敷・浜御所があった所で、日蓮が前執権北条時頼に提出した『立正安国論』を就筆したという岩穴、御法窟があることで有名です。
   鎌倉は日蓮に関するお寺や史跡が多いところですが、安国論寺はその名の通り、日蓮が立正安国論を書いたお寺です。境内の霊場には御小庵、御法窟、南面窟、熊王大善神尊殿も富士見台などがあり、富士見台は、日蓮上人が毎日ここから富士山に向って法華経を読誦されたと伝えられ、海岸と市内が一望できます。また、日蓮が持っていた桜の杖が根付いたといわれる妙法桜があり、本堂前のカイドウとサザンカの巨木と共に天然記念物に指定されています。
   安国論寺は、建長5年(西暦1253年)、安房から鎌倉に入った日蓮が松葉が谷に来て、初めて草庵を結んだ所の一つで、20年の間この地で過ごし、その聖跡が寺となったと伝えています。
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                                              <安養院>

   この寺の正式名称は、祇園山長寺安養院と号し、開山は願行房憲静、開基は北条政子で、嘉禄元年(西暦1225年)、夫・源頼朝の冥福を祈って建てた笹目の長楽寺が前身といわれています
   もともと、この地には尊観が開いた浄土宗の善導寺がありましたが、幕府滅亡とともに長楽寺は焼け落ちたため、浄土宗名越派の根本道場善導寺の遺跡に移して浄土宗に改め、政子の法名をとって「安養院」となりました。
   その後、江戸初期の延宝8年(西暦1680年)に火災で全焼し、再建にあたって、比企ヶ谷の田代観音堂を移したことから、田代寺とも呼ばれています。本堂には阿弥陀如来と田代観音があり、この田代観音を祈ったことで政子が頼朝と結ばれたといわれています。
   本尊の千手観音は、鎌倉期制定の坂東第三番札所として尊信を集めており、増上寺所蔵文書「浄土門末寺院」の中の「相模・大町村・田代寺普門院」の項にも、享保年間(西暦1716〜36年)僧常元が採訪し、「田代冠者信綱公室中示現之千手観音精舎建立、又、実朝公坂東三十三番札所建立之時、第三番目ノ札所卜決定」と記したとあります。これは坂東札所制定の歴史を知る上で、極めて貴重な資料といえます。
   この寺は、宝暦2年(西暦1752年)七月吉日江戸八丁堀・女中講の銘をもつ小鐘があるように、昔から女性にとって人気があるようです。政子がここのご本尊に祈って頼朝と結ばれた故事により「良縁」を祈る人も多いと言われていますが、政子の強さに肖りたい女性も多いのではないかと思います。>>>More

 
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                                              <延命寺>

   山号は帰命山延命寺、専蓮社誉能公上人によって開山された浄土宗の寺で、北条時頼の夫人が建立したといわれています。
   本堂に祀られている身代わり地蔵は、裸にならなければいけないという双六をしたときに、負けてしまった夫人の代わりに地蔵が裸になって双六の盤に現れたという話が残っています。
   この身代わり地蔵は、女根をつくりつけた裸地蔵として有名で「裸地蔵」や「前出地蔵」とも呼ばれており、天保頃には安養院の役寺であったことからか、江戸へ出開帳をしたこともあったといういいます。
   本堂裏手墓地に「古狸塚」という碑があります。江戸時代の終わりごろ、この寺に住みついた狸がよく人に慣れており、酒好きな和尚のために酒を買いに行ったりして可愛がられていたといいます。狸が死ぬと葬って碑をたて供養したと伝えられており、狸の墓というのは珍しいものです。
   また、寺仏に、赤穂四十七士のうち岡島八十右衛門の三男が住持であったと伝えられており、義士銘々伝と義士の画像もあったそうですが今はないそうです。
   日本における双六の歴史も相当古く、既に「日本書紀」には、持統天皇時代の朱鳥4年(西暦689年)に「禁断双六」と記述されています。禁裏向けと思いますが、賭博性のあった双六の禁止令が発せられたことも記されています。
   日本の現存する最古の双六は、朝鮮から渡来した「木画紫檀双六局」で、正倉院北倉の御物として所蔵されています。
   天平宝字元年(西暦757年)に施行された養老律令にも双六の記載があり、喪に服している期間中に行ってはならない雑戯として「双六囲某之属」とあり、「僧尼律」の中でも僧尼の博戯を禁じています。>>>More

 
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                                               <大宝寺>

   大宝寺は日蓮宗の寺で、周りは常陸の御家人・佐竹氏代々の屋敷跡と伝えられています。佐竹氏の祖先・新羅三郎源義光が、永保三年(西暦1083年)の後三年の役の時、兄・源義家とともにこれを鎮め、甲斐守となってここに館を構え、以来、佐竹氏の居館となりました。
   室町時代の応永六年(西暦1399年)佐竹義盛が出家し、屋敷のそばに多福寺を建立したのが前身となりました。
   その後、廃寺となっていたのを文安元年(西暦1444年)本覚寺開山の日出上人が再興し、多福寺の名を山号に残し、大宝寺と改めました。境内には新羅三郎源義光ゆかりの多福神社があり、その裏山には墓があります。

   佐竹氏は源頼朝の挙兵のとき、同じ源氏の一族でありながら、これに従わず、それまでに確保していた奥七郡および太田・糟田・酒出などの所領を没収されました。
   その後、頼朝の奥州藤原攻めで功をあげ、再び奥七郡の領有を許されることになったが、常陸の守護は八田知家であり、佐竹氏にとって鎌倉時代は雌伏の時期でした。

   佐竹氏が頭角を現わしたのは南北朝の内乱期で、足利尊氏に属して各地で戦功を挙げて常陸守護に任じられ、佐竹氏発展の基礎を築き、関東管領上杉氏との接近を図り、有力な守護大名として成長していきました。
   多福寺の建立はその当時の頃です。
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                                               <九品寺

   正式名称は、内裏山九品寺で、浄土宗の寺です。鎌倉では珍しく新田義貞によって建立された寺で、開山は風航順西、本尊は阿弥陀三尊です。
   元弘3年(西暦1333年)新田義貞は鎌倉攻めの折、本陣を材木座に構え、北条高時以下一族を攻め滅ぼし、鎌倉幕府を滅亡させました。その三年後の建武3年(西暦1336年)、北条方の大勢の戦死者を弔うため、新田義貞が本陣跡地に建て、『九品寺』の扁額は、新田義貞直筆の写しだといわれています。
   九品とは極楽往生を願う人の生前の行いによって定められた九種類の往生の有様をいい、日常生活では「上品」「下品」の二品しか使いませんが、「上品上生」「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下品」「下品上生」「下品中生」「下品下生」を合わせて九品とされています。
   寺内には碑があり、「新田、北条両軍戦死者の遺骨を由比ガ浜よりこの地に改葬す(昭和10年)(西暦1965年)」と書かれており、その年に、由比ガ浜・材木座海岸から、多数の遺骨が発掘され、無縁仏として九品寺に埋葬された記録があります。
   この昭和10年の記録を基に、昭和28〜31年(西暦1983〜86年)にかけて3回、東大人類学教室の鈴木尚教授らが発掘を行ないました。その折、材木座、鎌倉簡易裁判所周辺から合計910体分の遺骨が発掘され、同時に発掘された陶器や銭から鎌倉時代の遺骨と推定されました。遺骨は老若男女で、刀創、刺創、打撲創が見られる遺骨が見られることから、合戦の戦死者と推定され、それ程の多くの戦死者を出した合戦は、新田軍の鎌倉幕府倒幕であろうとされています。>>>More

 
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                                               <啓運寺>

   正式な名前は松光山啓運寺いい、日蓮宗のお寺で、創建は 文明15年(西暦1483年)  開山は啓運日澄上人、本尊は三宝祖師 です。
   場所は、大町四つ角から三浦道踏切を越えて海方向に行くと水道路という交差点があり、さらに直進して少し行くとやがて「南無妙法蓮華経」とかかれた石碑があります。
   日澄は、文亀3年(西暦1503年)55巻から成る「啓運抄」という法華教の研究書を出すなど学僧として知られ、当初は、大町の妙法寺の住職でしたが、文明25年(西暦1483年)に当寺を創建して移ったといわれています。日澄の死後は、明治末まで長勝寺が住持を兼任し、無住の寺となっていました。
   現在の本堂は、昭和8年(西暦1933年)に再建されたもので、寺には江戸期に作られた日蓮上人像があり、本尊三宝祖師像も新しいようです。また、かつては境内には、漁師の信仰を集めた「船守稲荷」ありましたが、現在は、稲荷本尊である神体木造船守稲荷神は像本堂に祀られています。
   明治時代には、日本近代洋画を確立した画家の黒田清輝が本堂をアトリエに使ったこともあるといい、黒田は辻説法のシーンなどを描いています。>>>More

 
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                                               <向福寺>

   円龍山向福寺は時宗・藤沢清浄寺末で、開山の一向上人は、光明寺に師事する浄土宗の僧でしたが、諸国を遊行して独自の布教活動をすすめ、伊吹山麓にも蓮華寺を創建するなど、その活動が一遍上人の説と同じくすることから時宗の一派に加えられています。
   本尊は観音、勢至の両菩薩を脇侍とする木造阿弥陀三尊像で、南北朝時代の作品といわれており、造立当時の姿をとどめ、中尊の深く刻みこまれた衣文の線の美しさはよく知られています。
   江戸時代末、文政9年(西暦1826)に再建された本堂と表門は、関東大震災で全壊し、現在の本堂は昭和の初期に建てられたものです。
   また、鎌倉三十三所観音霊場第15番札所としても知られ、御詠歌で「ふかき夜の ゆめにすくせし わが身にや さいわいにむく しるべなるらん」と歌われています。
寺は材木座のバス通りから少し入った所に建つ、本堂と庫裡だけのひそやかなお寺で、観光スポットから外れた感じのあるたたずまいは、祈りの場としての落ち着きを感じさせます。
また、『丹下左膳』などの作品で知られる作家・林不忘が、大正15年(西暦1926年)、この寺の一室を借りて新婚生活を送ったそうです。その後、没年まで笹目、雪ノ下と鎌倉の中を移り住んでいます。>>>More


 
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                                               明寺

   山号は天照山蓮華院光明寺といい、鎌倉には比較的少ない浄土宗の元関東総本山です。
   開基は第4代執権北条経時、仁治元年(西暦1240年)尊敬する然阿良忠上人(開山)のために 経時が佐助ケ谷に創建した蓮華寺が前身で、寛元元年(西暦1243年)、現在の地に移築され、光明寺と改称したと云われています。
   また、別伝では、北条氏の一族である大仏朝直が建立した悟心寺が元で、これが後に蓮華寺、さらに光明寺に改称したとも云われています。
   その後、13世紀〜14世紀にかけての歴史は定かでありませんが、室町時代には中興開山とされる祐崇上人によって復興されたと伝えられています。明応4年(西暦1495年)には、後土御門天皇より勅願寺(天皇の指定した祈願寺)に定められています。
   江戸時代には、徳川家康が浄土宗の学問所として関東の寺院18檀林を定めたとき、その第1位として大いに栄えました。
   鎌倉でも屈指の大寺院で、伽藍は総門、山門、千手院、蓮乗院、大殿(本堂)、開山堂、鐘楼、客殿、庫裏、本坊、書院等からなります。
   本堂と開山堂との間にある小堀遠州作の「記主庭園」には、大賀ハス「2000年蓮」が咲くことで知られており、また、本堂の右手にある庭園は「三尊五祖来迎の庭」は、浄土式の枯山水庭園で、苔と白砂の中に配された秩父青石が三尊五祖の姿を表しています。
   また、本堂に祀られている本尊木造阿弥陀三尊坐像や木造記主禅師坐像も有名で、初期の山門は鶴岡八幡宮の表門を移建したものだと云われています。
弘化4年(西暦1847年)に再建された現在の山門は、関東一の偉容を誇っており、掲げられている「天照山」の額は後花園天皇の直筆と云われています。>>>More

 
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                                               <上行寺>

   寺の正式名称は、法久山大前院上行寺と号し、日蓮上人の孫弟子にあたる日範上人を開山として正和2年(西暦1313年)に創建、「身がわり鬼子母神」「薬師瘡守稲荷」「癌除」「水子供養」の寺として知られています現在の本堂は、明治19年(西暦1886年)に松葉が谷妙法寺の法華堂を移築したものだそうです。
   本堂の瘡守稲荷は、主に天然痘や疱瘡等のいわゆる「できもの」を治癒してくれるということで「瘡守」と名が付いています。現代では「できもの」の一つである癌をはじめ難病にも霊験あらたかだとのことです。
   山門の裏側には日光東照宮の「眠り猫」の作者といわれる名工・左甚五郎の作と伝えられる龍の彫刻があり、法華堂には、まるでディズニーの世界のようなファンタジックな色彩の七福神が祀られています。
   本堂左手には万延元年 (西暦1860年)、桜田門外で大老井伊直弼の襲撃に加った水戸浪士広木松之介の墓があります。広木松之介は、井伊大老襲撃の後、鎌倉まで逃れてきましたが、同志の悉くが命を絶ったことを知り、自害して果てたそうです。
   左甚五郎は、江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人で、甚五郎作の作品と称されるものは、栃木県日光市日光東照宮「眠り猫」、京都府八幡石清水八幡宮「目貫きの猿」福井県鯖江市誠照寺「駆け出しの龍」など、北は青森県八戸市の櫛引八幡宮から、南は福岡市の筥崎宮楼門まで、全国100ヶ所近く確認され、制作年代も、安土桃山時代から江戸時代後期まで、300年に及んでいるといいます>>>More

 
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                                               <実相寺>

   開基は日蓮の直弟子である日昭上人で、13世紀末、鎌倉時代の武将工藤祐経の屋敷跡に法華堂を建立したのが始まりです。弘安7年(西暦1284年)に法華寺となり、後に伊豆玉沢(三島市)に移りましたが、元和7年(西暦1621年)に日潤によってこの地に再建されたのが、現在の実相寺だと伝えられています。明治の初めに大火で焼失し、今の本堂は、その後再建され、山門の奥にこぢんまりと建つお寺です。
   開山の日昭上人は、曽我五郎・十郎兄弟によって仇討ちされた鎌倉時代の武将・工藤左右衛門祐経の孫にあたり、「六老僧」と呼ばれる日蓮直弟子6人の筆頭だった方です。日蓮上人が佐渡に流されている間、一門を教化するために法華堂を建て、教えを守り続けたそうです。寺の墓地には日昭上人が眠る墓があります。
   曾我兄弟の仇討ちは、鍵屋の辻の決闘、赤穂浪士の討ち入りと並んで「日本三大仇討ち」と称されています。初夢で見ると縁起がいいとされる「一富士、二鷹、三茄子」、一説には日本三大仇討ち(富士の裾野の曽我兄弟、鷹紋の赤穂浪士、茄子紋の「鍵屋の辻」の荒木又衛門)から取られたものという話しがあります。
   この事件は後に『曽我物語』としてまとめられ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得ています。
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                                               千手院>

   当山は天照山千手院と号し、光明寺の塔頭のひとつで、もとは光明寺に各地から集まってきた学僧達が泊った寺僧寮であったと伝えられています。
   寺は関東大震災で崩壊し、文献も灰燼になってしまったので、創建の年や開山、開基は不明です。当初は浄土宗の本尊である阿弥陀如来像を安置し、千手観音を祀り「観音堂」と呼ばれ、専修院と称して貞亨年間(西暦1684〜88年)までは念仏の道場として盛んであったようです。その後、学僧の数も減ったため、学頭と呼ばれた住職は、近所の子供たちに読み書き、そろばんなどを教えるようになったそうです。
   明治15〜26年(西暦1882〜96年 ) の頃は、「桑楊小学校」の教場となって材木座の子供たちが通学するようになり、今は、本堂に祀られている千手観音が人々に知れたことから千手院と言われています。なお、千手観音は天文元年(西暦1532年)関西からこの寺へ来た恢誉(かいよ)上人が守護仏として持ってきたものとして伝えられており、鎌倉三十三所観音霊場の第二十番札所として知られています。
   三十三所の観音霊場を巡る観音信仰は、観音が危難に際して救いの手を差し伸べてくれるという現世利益的な信仰で、インドに始まり、「法華経」中の観世音菩薩普門品にその思想が見られるそうです。
   日本では天平12年(西暦440年)に起きた藤原広嗣の乱の時、国ごとに七尺観音像をつくり反乱鎮圧を祈ったのが始まりとされ、九世紀はじめの日本霊異記には、観音を念じて災いを逃れた話が多数載っています。>>>More

 
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                                               <長勝寺>

   開基は日蓮の直弟子である日昭上人で、13世紀末、鎌倉時代の武将工藤祐経の屋敷跡に法華堂を建立したのが始まりです。石井山と号し、日蓮宗に属する寺で、日蓮に帰依した石井長勝が、日蓮を開山として草創したと伝えられています。
   開基は日蓮の直弟子である日昭上人で、13世紀末、鎌倉時代の武将工藤祐経の屋敷跡に法華堂を建立したのが始まりです。寺の由緒書によれば京都本圀寺の旧地とされ、貞和元年(西暦1345年)に僧日静が寺を再興し長勝寺と名づけたといわれています。堂内には日蓮上人坐像や帝釈天像があり、県や市の重要文化財に指定されている大壇、鰐口、鍵盤などが安置されています。
   開基は日蓮の直弟子である日昭上人で、13世紀末、鎌倉時代の武将工藤祐経の屋敷跡に法華堂を建立したのが始まりです。鎌倉の風物詩として有名な厳しい寒さの中で修行僧が行う荒行は、毎年2月11日にこの長勝寺で行われます。また、近くには鎌倉十井の一つである銚子ノ井があります。
   開基は日蓮の直弟子である日昭上人で、13世紀末、鎌倉時代の武将工藤祐経の屋敷跡に法華堂を建立したのが始まりです。本堂である法華三昧堂は、桁行5間・梁行6間の規模をもつ茅葺の仏堂で、建築年代を直接示す資料はありませんが、小田原北条氏の家臣遠藤宗為の建立と伝えられることや様式手法から見て、お堂は室町時代末期の建築と推定されますが、側回りは元禄6年(西暦1693年)に改造が加えられていまが、禅宗の要地である鎌倉にあって、禅宗以外の唯一の中世仏堂であり、伝統的な密教本堂の形式を伝える貴重な存在といえます。
   開基は日蓮の直弟子である日昭上人で、13世紀末、鎌倉時代の武将工藤祐経の屋敷跡に法華堂を建立したのが始まりです。平面は、3間四方の内陣とその前面の外陣、および内陣の両脇と背面にめぐらされた入側から構成され、伝統的な蜜教本堂の形式をとり、柱の上端を細くすぼめ、柱上のみでなく柱間にも組物を配するなど、細部については禅宗様建築の影響が見られます。>>>More

 
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                                                               <辻の薬師堂>

   本覚寺妙本寺前を南へ小町大路(小路)を下り、大町四つ角から三浦古道に入り、魚町橋を越えて進むと、横須賀線三浦路踏み切りがあり、そのすぐ手前右に辻の薬師堂はあります。
   
辻の薬師堂は、現在の位置に落ち着くまで数奇な運命をたどっています。もともとは、建久元年(西暦1190年)に、源頼朝二階堂(現在の鎌倉宮あたり)に建立した医王山東光寺(一説には、二階堂行光が承元3年(西暦1209年)に永福寺の傍らに建立)の境内にあったと云われています。
   その後の宝永元年(西暦1704年)奈良時代の神亀年間に由比の長者染谷太郎時忠が建立した、大町名越御嶽(名越切通しの近く)にあったと云われる古刹、古義真言宗長善寺に移され、更に、寺と共に大町辻に移り、延宝2年(西暦1674年)には、水戸光圀も訪れていると伝えられています。
   江戸末期に寺は焼失しましたが、薬師堂だけは残り、明治期の横須賀線敷設工事に伴い、現在地に移設されたそうです。
   
現在、薬師堂は大町辻町の町内会の人々によって維持管理され、中の薬師如来立像や十二神将立像の諸仏像はレプリカだそうです。本物は鎌倉国宝館に寄託され、神奈川県指定文化財として安全に保管されています。レプリカの諸仏は、浄財を入れると堂内が20秒間点灯して拝観できるようになっています。
   木造薬師如来立像は、平安時代後期の作で、両手、両足先を後補とするなど、全体に補修が多く、胎内には経典が納められており、中には「明文10年(西暦1478年)」の年号が認められています。脇侍の日光・月光菩薩像は、室町時代の作、木造十二神将立像は、12躯のうち8躯が鎌倉時代の作、残り4躯は室町時代の補作と推定されています。>>>More


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                                               <別願寺>

   正確な山号寺号は、稲荷山超世院別雁寺といい、時宗藤沢清浄光明寺(遊行寺)の末寺です。元々は真言宗の能成寺でしたが、弘安5年(西暦1282年)に覚阿公忍上人が時宗に改宗し、寺号を別願寺と改名し、鎌倉の時宗の中心となり、室町時代には足利一族が深く信仰し、鎌倉御所の菩提寺として栄えました。
   天正19年(西暦1591年)には徳川家康から寺領を寄進され、寺勢を誇っていましたが、江戸時代に入ると除々に衰微していきました。
   本堂脇には足利持氏の供養塔と伝わる石像宝塔が立っており、本尊は木造阿弥陀三尊像です。また、鎌倉三十三観音の寺院の中で、札所本尊が唯一、珍しい魚藍観音のお寺です。
   鎌倉公方足利持氏は、応永16年(西暦1409年)、父・満兼の死去によって鎌倉公方となりましたが、関東管領上杉禅秀や叔父足利満隆と対立し、応永23年(西暦1416年)に禅秀と満隆にクーデターを起こされて一時、駿河に追放されました(上杉禅秀の乱)。しかし、この反乱は、翌年に越後上杉房方らの助力を得て鎮圧しています。

   札所本尊の観音は、正しくは魚藍観世音菩薩といい、頭髪を唐様の髷に結った美しい乙女の姿の観音様で、中国の唐の時代に、仏が美しい乙女の姿で現れ、竹かごに入れた魚を売りながら仏法を広めたという故事に基づいて造形されたのだと伝えられています。>>>More

 
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                                              <補陀洛寺>

   正式名称は南向山帰命院補陀洛寺と号し、古義真言宗のお寺です。元は京都仁和寺末(新編鎌倉志)に連なっていましたが、後に青蓮寺末(関東古義真言宗本末帳)となり、現在は京都大覚寺末寺となっています。
   開山は頼朝に挙兵をすすめた文覚上人、開基は源頼朝と伝えられており、後、鶴岡供僧頼基が中興したといわれています。現在の本尊は十一面観音ですが、元の本尊は薬師如来であったそうです。
   明治初年の火災で殆ど烏有に帰しましたが、その時誰も出した覚えがないのに、仏像類は全部無事であったといいます。大正十二年震災で全壊し、現在の本堂は大正十三年春に建立されたものです。
   補陀洛寺は頼朝の祈願所として、養和元年(西暦1181年)に創建したと伝えられています。頼朝はもともと観音信仰が強い人で、前年に鎌倉に入り、鎌倉の南に位置するこの地に観世音菩薩を祀ったのではないかと推測されています。
   寺名「補陀洛」の意味は、補陀洛はサンスクリット語の「ポータラカ」で、ホダラカは「観音の浄土」を意味し、日本語に翻訳されたとき「補陀洛迦」(「ホダラク」あるいは「フダラク」ははるかな南の海にあると信じられた「観音浄土」ポータラカの音写)の字をあてたようです。
   昔は七堂伽藍をもつ大きな寺院で、境内も一キロ四方あったそうで海が望め、由比ガ浜で発生した竜巻がこのあたりを通り、たびたび大きな被害をうけ「竜巻寺」ともいわれています。>>>More

 
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                                               <本興寺>

   本興寺は法華山本興寺と号し、開山は伊豆の美濃阿闇梨である天目上人です。
   日蓮上人が建長6年(西暦1254年)から数年にわたって折伏逆化の辻説法を行った由緒ある場所として、辻説法の碑が建てられており、そのため「辻の本興寺」とも呼ばれています。
   創建は、日蓮上人の死後、延元元年(西暦1336年)で、天正19年(西暦1591年)に徳川家康が寺領を寄進しましたが、慶長十三年(西暦1608年)、二十七世住持・日徑の「不受布施法門主張」が家康の怒りに触れ、京都六条河原で処刑されたことなどから廃寺となりました。
   
その後、寛文10年(西暦1670年)比企谷歴代照幡院日逞上人が説法旧地の衰退を嘆き、寺門の復興を願い、 徳川家より寺領の寄付を受け、本興寺の中興を成し遂げました。
   日蓮聖人は、建長5年(西暦1253年)4月房州清澄山頂旭の森で立教開宗し、同年5月鎌倉に入り、松葉ヶ谷の草庵に住み、大町、小町の辻に立って説法し、布教を図られたと伝えられています。
   鎌倉時代、商業に対しての認識が未成熟であったことに加え、軍事要塞都市の必要性から、商業は、大町、殻町(米町)、魚町、大蔵辻、武蔵大路など限られた地域でのみ許されていたようで、なかでも大町は鎌倉の商業の中心地であり、律宗などの既存仏教が盛んな場所でもあったようです。日蓮聖人は、その大町、小町の辻に立って正法宣布の法戦をしかけ、杖木瓦石の難に会ったと云われています。
   なお、覚園寺の十二神将(室町時代の鎌倉仏師・朝祐の作)は、辻の薬師の像をモデルとしたと云われています。
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                                                     <曼荼羅堂跡>

   曼荼羅堂は、かつて観音信仰が盛んだった時代「坂東三十三観音霊場・札所」の第一番・杉本寺(鎌倉市)から第二番・岩殿寺(逗子市)に向けて、巡礼の人達が行き来した巡礼古道が、三浦へ抜ける名越切通と、交わる場所の辺りにあったと考えられています。

   
その場所には、鎌倉防衛のために設けられた切岸にと呼ばれる施設が造られ、その切岸に沿って葬送遺構のやぐら群と死者を弔うお堂としての曼荼羅堂が建てられていたと云われています。曼荼羅堂やぐら群の近くには、他にも尾根頂部には石祠、塚状の盛り土や五輪塔などの石塔類が多く見られ、近年の名越切通とその周辺部の発掘調査で荼毘跡や土坑、火葬骨などが出土しています。
   曼荼羅堂のやぐら群は隠匿やぐらだと確認されています。隠匿やぐらは、一般的なやぐらが、開放的で、内部に装飾を施し、五輪塔などの供養塔を安置するものであるのに対し、やぐら内に梵字を刻み、金箔が貼られた五輪塔を積み上げた後、石の扉で入口を閉ざし、内部を隠くすように造られたものであったと云われています。実際に掘り出された五輪塔の中には梵字が刻まれ、金箔が貼られたものも残っていたそうです。
   
ここのやぐらの造られた時期は、鎌倉時代後期から室町時代始め頃のものと考えられていますが、どのような人々を埋葬したのかは、分っていません。しかし、五輪塔の中に金箔が貼られたものが残っていたことから、上層階級の武士や僧侶などの墳墓と思われます。
   名越切通から別れ、巡礼古道に入り、曼荼羅堂やぐら群の脇を通り杉本寺方面へ向かうと、やがて尾根の上に出、二基の石廟に行き着きます。この石廟は鎌倉市指定文化財に指定されており、周辺から発見された五輪塔の一部や、かわらけ片などから、鎌倉末期から南北朝期に造られたものと推定されます。また、内部には火葬した骨を納めた蔵骨壺が納められていたと考えられています。>>>More

 
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                                                                  <妙長寺>

   山号は、海潮山妙長寺と号し、創建は正安元年(西暦1299年)、開山は日蓮聖人の弟子の日実上人で、日蓮聖人が、伊豆伊東に流される時に、船出した材木座沼浦に建てた寺がはじまりだと云われています。
   山門を入った右側に、伊豆流罪となった日蓮上人の「法難御用船」の1/6模型があり、本堂には、本尊の一塔両尊四士祖像や日蓮、日朗、日実上人の木造坐像のほか、七面天女、三面大黒天等多くの仏像が祀られています。日蓮聖人像には寛文5年(西暦1665年)の年紀をもつ胎内納入文書が残っているそうです。
   
境内には日蓮上人伊豆法難記念相輪塔が建っており、また、鎌倉、逗子、三崎の漁師や魚商達の手による明治11年(西暦1878年)建立の鱗供養塔があります。
   寺伝によると、弘長元年(西暦1261年)琵琶小路で幕府の役人に捕らえられた日蓮聖人は、材木座の沼浦から船出し、伊豆伊東の海岸にほど遠い俎岩(まないたいわ)に降ろされ、岩の上に置き去りにされましたが、付近で漁をしていた漁師船守弥三郎に救われたそうです。
   この漁師の息子が、後の日実上人で、日蓮聖人歿後十八年目に鎌倉に上り、沼浦に近い丘の上にお堂を建てましたが、その後数度にわたり津波に流されたため、宗祖滅後四百年目の天和元年(西暦1681年)現在地に移転したと伝えています。この場所には、元天目上人が開創した畠中円成寺があったと云われています。
   
現在の山門と本堂は、古い山門、本堂が取り壊され、平成18年(西暦2006年)5月に落成した真新しいもので、昔の姿を知る者にとって、歴史ある建物が消えることは、ちょっと寂しい気がします。>>>More

 

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                                               妙法寺

   妙法寺も、日蓮宗の寺院です。日蓮が鎌倉の松葉ヶ谷にきて、はじめて草庵を結んだといわれているところの一つです。日蓮の鎌倉での布教の拠点となったため、日蓮に反感を持つ武士や僧らによって文応元年(西暦1260年)に焼き討ちされています。

   草庵跡には、この妙法寺の前身、日蓮を開山とする本国寺が建っていました。本国寺はなかなかの寺格だったようで、鎌倉幕府崩壊当時の四世日静聖人の父は上杉頼重、母は足利氏の女、または足利尊氏の母方の叔父と伝えられています。
   しかし、元弘3年(西暦1333年)に鎌倉幕府は崩壊すると、庇護者の足利尊氏は、足利一族の京都転進にあわせ、興国6年(西暦13577年)に六条楊梅に広大な寺域を得て、鎌倉から本国寺を移転させました。京都大本山本圀寺の法華堂は、貞和元年(1345年)に、松葉谷より京都に移されたものです。
   その後、松葉ケ谷の跡地には、護良親王の遺子日叡によって、延文2年(西暦1357年)に堂塔伽藍が復興され、幼名・楞厳丸にちなんで、楞厳山妙法寺と称し、山頂に父母の墓が建てられました。
   この本圀寺の移転の裏には後醍醐天皇と足利尊氏の確執があったようです。後醍醐新政下で勅願寺となっていたのは日蓮宗の妙顕寺で、足利尊氏としても自分の息のかかった日蓮宗の寺が必要になり、六条楊梅に広大な寺域を得て鎌倉から本国寺を移転させ、自分が擁立した北朝・光厳天皇の勅定により、新たに帝の勅願寺としたようです。>>>More


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                                           <来迎寺(材木座)>

   寺の正式名称は、隋我山能蔵院来迎寺と号し、開基は源頼朝で、源頼朝に加勢して畠山重忠の軍勢と闘い89歳で戦死した三浦半島衣笠城主・三浦大介義明の菩提を弔うため、建久五年(西暦1194年)に真言宗能蔵寺を建立した時に始まります。しかし、開山上人は明らかではありません。
   時宗に改宗した時期は定かではありませんが、おそらく、建武2年(西暦1335年)音阿上人が改宗し、名前を来迎寺と改めたと思われ、能蔵寺から起算すると実に八百余年の歴史があります。
   時宗の総本山は、神奈川県藤沢市西富、藤沢山清浄光寺通称遊行寺で、開祖は一遍上人です。今から七百年余り前文久11年(西暦1274年)、熊野権現澄誠殿に参籠、熊野権現から夢想の口伝を感得し、「信不信浄不浄を選ばず、その札を配るべし」の口伝を拠り處に、神勅の札を携え西は薩摩から東は奥羽に至るまで、凡そ16年、日本全国津々浦々へ、念仏賦算の旅を続けられました。
   その間寺に住されることなく亡くなるまで遊行聖に徹し、その教法の要旨は『今日の行生座臥擧足下平生の上を即ち臨終とこれを心得称名念仏する宗門の肝要となすなり』とある「念仏によって心の苦しみや悩みは、南無阿弥陀仏の力で救ってくださる」ということです。

   なお、来迎寺はミモザの寺として有名で、入口の右脇に、樹高7m、傘の直径5m程の木が聳え立ち、満開の時には黄色い花が咲き誇ります。>>>More

 
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                                               <蓮乗院>

   天照山蓮乗院は、光明寺の山門の右横にひっそりと佇む浄土宗のお寺です。
   創立年代や開山については明らかではありませんが、光明寺草創以前よりこの地にあり、当時は蓮乗寺と称し、真言宗に属していたと伝えられています。
   光明寺を開山した記主禅師良忠上人が、落成に至るまでの間、この蓮乗院に居住して督励に専念された由緒があり、その後、新住職が光明寺に入山の際には、必ず一度この蓮乗院に入り、改めて本山方丈に向かう慣習が残っています。
   本堂は、正徳2年(西暦1712年)に立てたという棟木が残っており、本尊の阿弥陀如来立像は、新編相模風土記稿によると源頼朝の御家人、千葉介平常胤の守護仏像と伝えられるとあります。そのためか、千葉家の家紋が当院の寺紋となっています。
   昭和33年(西暦1958年)及び昭和51年(西暦1976年)の両度にわたる文化財調査によって、胎内背部に造像銘が残されており、胎内全面に阿弥陀経の48願の文(一部脱落あり)が記され、とくに背部には「大仏師播磨法橋宗円」の作であること、「宇治氏の女某」が志主となって「父母師長六親眷属乃至法界衆生の平等利益」のために「正安元年(西暦1299年)10月1日」にこの像を造進したと記されています。また、貞治3年(天正19年、西暦1364年)2月4日に修理されたことも首の柄に記されています。
   本堂には松岡家(大町在住)三代に亘る行業による花鳥図の板襖絵や、極楽浄土を思わせる格天井の絵があります。月岡栄貴画伯を主宰として16人の画伯が彩管をふるったと云われています。>>>More

 
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